Lapiz2024夏号Vol.50《巻頭言》井上脩身編集長

【Lapiz Online】2024年は、能登半島が最大震度7の激震に見舞われることから始まりました。ピーク時には能登の住民ら1万2834人が学校や公民館などに避難、多くの高齢者はじっと寒さに耐えました。テレビに映される被災地の模様を見ていて、29年前、阪神大震災の避難所で目にした光景がよみがえってきました。
神戸市東灘区の小学校は、教室だけでなく廊下にも避難者があふれていました。一つの教室が遺体安置所にあてられ、十数人の遺体がふとんに寝かされていました。そのほとんどが高齢者。身元がわかっている人には、枕元に氏名が書かれたかカードが置かれています。半数以上はカードがおかれていません。
運ばれた遺体が想定以上に増えたからでしょう。数人は教室に入れず、廊下に置かれていました。この人たちにはカードがありません。
周辺の住民たちの多くは家族で避難していました。早く避難した家族は安置所から離れた教室で、段ボールなどを利用して自分たちのスペースをつくっています。遅くやってきた家族は教室も廊下もつまっていて、遺体のわきにしかスペースが空いていません。小さな子どもがいる一人の母親は、氏名もわからない遺体のそばで、携帯コンロを使って即席メンを煮ていました。出来上がったラーメンをもくもくと食べる家族の顔には生気がうせていました。
この小学校の周りは、東大合格者全国1、2位という灘高校もある文教地帯。そこに暮らす人たちが見ず知らずの遺体の横で避難暮らしをする。経済大国・日本で起きた現実に私は息をのみました。
阪神大震災による死者は6434人にのぼりました。私は、少なくとも自分が生きている間、これより被害の大きい地震は起こらないだろうと思いました。ところが阪神大震災から16年後の2011年、東日本大震災が発生、主に津波によって12都県で15900人が死亡、2520人が今なお行方不明という大惨事となりました。その後、2016年に熊本地震が起き、関連死も含めて276人が亡くなりました。そして今年1月1日の能登半島地震では死者245人、行方不明者3人(5月1日現在)という犠牲者がでました。
「天災は忘れた頃にやってくる」は科学者、寺田寅吉の言葉です。彼は随筆『天災と国防』の中で「人間はもう少し過去の記録を忘れないように努力するより外はないだろう」と書きました。寺田寅吉が生きていたら、忘れる前に次々に地震が発生することに驚きをおぼえたに違いありません。政治学者の五百旗頭真さんは地震続発の現在を「大災害の時代」といいます。
地震多発の時代は過去にもありました。豊臣秀吉がのし上がってきたころから、天下人となった1580~1610年代のことです。
1586年1月(天正13年11月)、美濃から伊勢にかけて直下型地震が起き、秀吉の旧領の長浜城が倒壊。秀吉に帰順した織田信雄の伊勢長島城も倒れ、秀吉は一夜にして前線基地を失いました。慶長年間(1596~1615年)はとくに地震が頻発、慶長伊予地震(1596年)、慶長豊後地震(同)、慶長伏見地震(同)、慶長地震(1605年)、会津地震(1611年)、慶長三陸地震(同)と続きました。
このうち慶長伏見地震は有馬―高槻断層帯、六甲―淡路島断層帯を震源としたM7・5クラスの直下型地震で、死者は1000人を超えたとみられています。秀吉は伏見城の改築を進めるために城に滞在していました。地震で完成間近の伏見城天守閣が倒壊し、秀吉は命からがら避難。大坂城に戻った秀吉は食欲不振が続いてやせ細り、夢枕に立った信長にうなされたり、尿失禁をきたすようになりました。
以上の秀吉の時代の地震については、早川智・日大医学部教授による毎日新聞の「偉人たちの診察室」欄(2024年1月24日、1月31日)の記述からの引用です。早川教授は「地震や津波、台風などの自然災害は人の精神に大きなトラウマを残す。代表的なのは被災直後の恐怖や悲惨な光景が何度もよみがえるトラウマ反応。そして知人との死別や住居の喪失がもたらす避難生活によるストレス反応」と指摘。「こうしたストレスは秀吉も例外でなく、心的ストレスがキリシタン迫害などのその後の判断に影響したのではないか」と早川教授はみています。
慶長伏見地震の翌年、秀吉は朝鮮への再出兵を命じました。だれがどう見ても無謀な朝鮮出兵。この判断の誤りの遠因に地震によるストレスがあったのかもしれません。
秀吉のことはともかく、気になるのは早川教授が問題視する避難生活のストレス。阪神大震災以来、精神科医として被災者と向き合ってきた兵庫県こころのケアセンターの加藤寛センター長は「突然の災害によって精神的にトラウマ、悲嘆、ストレスの三つの影響を受ける」と分析したうえで、最も大事なこととして「被災者が必要な支援を受けられること」を強調。「住宅や医療・介護サービス、人間関係など生活環境が安定することで、初めてトラウマから回復したり、死別による悲嘆を受け入れたりするプロセスに入ることができる」と指摘しています。(4月1日、東京新聞電子版)
大災害の時代にはいって、国は「災害に強い国土づくり」というハード面を前面に押し出し、土木事業を進めていますが、忘れてはならないのは被災者の心の回復というソフト面の支援です。阪神大震災を機に、被災地では全国からやってきたボランティアがさまざまな支援活動を行うようになりました。ボランティアの熱心な活動が被災者のトラウマ、ストレス軽減にもつながるのは確かでしょう。しかし、ライフラインの復旧や医療や教育の再開など、被災者の生活を取り戻す活動の主体はいうまでもなく行政当局です。ボランティアの活動が脚光を浴びる半面、行政当局がボランティアを自分たちの手足として動いてもらおうと考えているのではないでしょうか。そんな疑問をもつのは、能登半島地震での行政当局の一部の幹部のボランティアに対する態度に、上から目線を感じるからなのです。行政とボランティアの関係はどうあるべきなのでしょう。大災害の時代のなか、今後の課題といえそうです。
大災害の時代については、びえんとの中でも取り上げました。