現代時評《人民不在の国民限定憲法》井上脩身

【609studio】憲法記念日の3日、各地で憲法を考える集会が開かれた。護憲派は「憲法9条が骨抜きにされている」と危機感を募らせ、改憲派は「改正のための世論づくりを」と訴える。こうした相も変わらぬ報道にうんざりきみの私の頭をガーンとたたく記事にであった。現憲法の大原則は「国民主権」であるが、アメリカ合衆国憲法でもドイツ基本法でも、登場するのは「人」であって、「国民」ではないというのだ。私は「憲法は国民のためのもの」と信じて疑わなかった。そうではなく、「憲法は人のためのもの」であるならば、日本国籍のない人にも憲法の人権規定が及ぶはずだ。政府は第9条を拡大に次ぐ拡大解釈をしてきた。ならば「国民主権」を「人民主権」と解釈しても何ら問題はあるまい。いま難民受け入れ申請者や外国人労働者が急増している。「国民限定憲法」の殻を破り、「開かれた憲法」へと柔軟に対応していかなければ、わが国は早晩、諸外国からソッポを向かれるであろう。

現憲法は第1条で天皇が象徴であることを掲げたあと、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」と続けて「国民主権」を標榜。これを受けて「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」(第11条)、「すべて国民は、個人として尊重される」(第13条)、「すべて国民は、法の下に平等」(第14条)などと規定している。
記事は5月11日付毎日新聞のコラム欄「土記」に掲載された「憲法に潜む外国人嫌い」。伊藤智永・専門編集委員が執筆した。「日本人は外国人が嫌いだ。移民を望まないから問題を抱えている」とのバイデン大統領の発言を取り上げて現憲法の制定過程を概観、問題点を拾いあげている。記事の概要は以下のとおりである。
フランス人権宣言は「人は自由かつ諸権利において平等なものとして生まれ、生存する」と宣言し、アメリカ合衆国憲法は「何人に対しても法の平等な保護」を認め、戦後のドイツ基本法も「全ての人は法の下に平等」と定める。一方、日本国憲法に「人」は登場せず、主語は「国民」。古関彰一氏(獨協大名誉教授)らの憲法制定史研究によると、連合国軍最高司令部(GHQ)草案では主語は「自然人」。いったん「凡(スベ)テノ自然人ハ其ノ日本国民タルト否トヲ問ハズ」という文案になったが、政府は文語体から口語体に直すどさくさに主語を「国民」にした。「国民」については3年後、国籍法で「日本国籍保有者」と規定した。

以上の記事を読んで、私は書棚から古関氏の『平和憲法の深層』(ちくま新書)を取り出した。書名からわかるとおり、憲法9条の制定過程を明らかにしたものだが、「国民」について何らかの記述があるのではないか、と思ったのだ。同書によるとGHQ案は「the sovereign will of the People(国民の、あるいは人民の主権的意思)
とあり、外務省は「人民の主権意思」と訳した。伊藤氏の記事によると内閣法制局が「人民とは王に抵抗する民を指す。日本人は天皇と対立しない」と反論したという。
憲法の「国民主権」について、私は大学で「戦前の天皇主権を否定し、国民がこの国の主体となることを表した」と学んだ。だが、憲法制定過程をみると、「天皇」の存在を大前提とし、大日本帝国憲法に規定された「日本臣民」を「日本国民」に書き変えたというのが真相のようだ。それ以外の在日朝鮮人らを含むPeopleについては、日本に長く住んでいようがいまいが、視野の外におかれたのである。
憲法前文は「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し――」と、「日本国民」からはじまる。もしGHQ案どおりならどうなっていただろうか。『註釈 アメリカ合衆国憲法』(鈴木康彦著、国際書院)を開くと、前文は「We the People of the United States――」で始まっており、「People」を著者は「人民」と訳している。日本の憲法も「日本の人民の憲法」になっていたであろう。

憲法制定後、グローバル化のなかで日本は経済大国になった。だが政府は日本国籍のない人たちへの冷淡な政策を変えることはなかった。在日韓国・朝鮮人については選挙権を認めず、難民については2022年度の場合、申請者3772人に対し202人を認定しただけ。「全ての人は法の下に平等」と定めたドイツが210万人(2023年)の難民を受け入れていること思うと、日本は難民拒否国というほかない。2022年6月現在、在留外国人は266万人と2008年の48万人から5・5倍も増えている。だが、外国人労働者に対する労働環境や給与などさまざまな面での差別はなくならず、国も有効な手が打てていない。これもまた「国民」以外のPeopleだからであろうか。
憲法については、自民党などによって「自衛隊の9条での位置づけ」「災害対策のための国家緊急権導入」「環境権の名文化」などの変更提案がなされている。だが最も基本的な「国民主権主義」について、私が知る範囲、異論を唱える人はいない。いま私は訴えたい。主権者は「国民」でなく「人民」であるべきである。

 

憲法記念日の3日、各地で憲法を考える集会が開かれた。護憲派は「憲法9条が骨抜きにされている」と危機感を募らせ、改憲派は「改正のための世論づくりを」と訴える。こうした相も変わらぬ報道にうんざりきみの私の頭をガーンとたたく記事にであった。現憲法の大原則は「国民主権」であるが、アメリカ合衆国憲法でもドイツ基本法でも、登場するのは「人」であって、「国民」ではないというのだ。私は「憲法は国民のためのもの」と信じて疑わなかった。そうではなく、「憲法は人のためのもの」であるならば、日本国籍のない人にも憲法の人権規定が及ぶはずだ。政府は第9条を拡大に次ぐ拡大解釈をしてきた。ならば「国民主権」を「人民主権」と解釈しても何ら問題はあるまい。いま難民受け入れ申請者や外国人労働者が急増している。「国民限定憲法」の殻を破り、「開かれた憲法」へと柔軟に対応していかなければ、わが国は早晩、諸外国からソッポを向かれるであろう。

現憲法は第1条で天皇が象徴であることを掲げたあと、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」と続けて「国民主権」を標榜。これを受けて「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」(第11条)、「すべて国民は、個人として尊重される」(第13条)、「すべて国民は、法の下に平等」(第14条)などと規定している。
記事は5月11日付毎日新聞のコラム欄「土記」に掲載された「憲法に潜む外国人嫌い」。伊藤智永・専門編集委員が執筆した。「日本人は外国人が嫌いだ。移民を望まないから問題を抱えている」とのバイデン大統領の発言を取り上げて現憲法の制定過程を概観、問題点を拾いあげている。記事の概要は以下のとおりである。
フランス人権宣言は「人は自由かつ諸権利において平等なものとして生まれ、生存する」と宣言し、アメリカ合衆国憲法は「何人に対しても法の平等な保護」を認め、戦後のドイツ基本法も「全ての人は法の下に平等」と定める。一方、日本国憲法に「人」は登場せず、主語は「国民」。古関彰一氏(獨協大名誉教授)らの憲法制定史研究によると、連合国軍最高司令部(GHQ)草案では主語は「自然人」。いったん「凡(スベ)テノ自然人ハ其ノ日本国民タルト否トヲ問ハズ」という文案になったが、政府は文語体から口語体に直すどさくさに主語を「国民」にした。「国民」については3年後、国籍法で「日本国籍保有者」と規定した。

以上の記事を読んで、私は書棚から古関氏の『平和憲法の深層』(ちくま新書)を取り出した。書名からわかるとおり、憲法9条の制定過程を明らかにしたものだが、「国民」について何らかの記述があるのではないか、と思ったのだ。同書によるとGHQ案は「the sovereign will of the People(国民の、あるいは人民の主権的意思)
とあり、外務省は「人民の主権意思」と訳した。伊藤氏の記事によると内閣法制局が「人民とは王に抵抗する民を指す。日本人は天皇と対立しない」と反論したという。
憲法の「国民主権」について、私は大学で「戦前の天皇主権を否定し、国民がこの国の主体となることを表した」と学んだ。だが、憲法制定過程をみると、「天皇」の存在を大前提とし、大日本帝国憲法に規定された「日本臣民」を「日本国民」に書き変えたというのが真相のようだ。それ以外の在日朝鮮人らを含むPeopleについては、日本に長く住んでいようがいまいが、視野の外におかれたのである。
憲法前文は「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し――」と、「日本国民」からはじまる。もしGHQ案どおりならどうなっていただろうか。『註釈 アメリカ合衆国憲法』(鈴木康彦著、国際書院)を開くと、前文は「We the People of the United States――」で始まっており、「People」を著者は「人民」と訳している。日本の憲法も「日本の人民の憲法」になっていたであろう。

憲法制定後、グローバル化のなかで日本は経済大国になった。だが政府は日本国籍のない人たちへの冷淡な政策を変えることはなかった。在日韓国・朝鮮人については選挙権を認めず、難民については2022年度の場合、申請者3772人に対し202人を認定しただけ。「全ての人は法の下に平等」と定めたドイツが210万人(2023年)の難民を受け入れていること思うと、日本は難民拒否国というほかない。2022年6月現在、在留外国人は266万人と2008年の48万人から5・5倍も増えている。だが、外国人労働者に対する労働環境や給与などさまざまな面での差別はなくならず、国も有効な手が打てていない。これもまた「国民」以外のPeopleだからであろうか。
憲法については、自民党などによって「自衛隊の9条での位置づけ」「災害対策のための国家緊急権導入」「環境権の名文化」などの変更提案がなされている。だが最も基本的な「国民主権主義」について、私が知る範囲、異論を唱える人はいない。いま私は訴えたい。主権者は「国民」でなく「人民」であるべきである。