連載コラム・日本の島できごと事典 その127《ハワイ官約移民》渡辺幸重

周防大島の日本ハワイ移民資料館 https://suooshima-hawaii-imin.com/exhibition/

ハワイ諸島は1795年からハワイ王国として立憲君主制の独立国家を形成していましたが1893年にアメリカ移民を中心とした選挙でアメリカ合衆国の傀儡国家となり、1898年にはハワイ準州としてアメリカに併合されました。

日本政府は1885(明治18)年にハワイ王国との間で日布渡航条約を結び、日本からハワイに労働者を送り出す「官約移民」事業を始めました。これは3年契約でハワイのサトウキビ農園などで働くという制度です。第1回は成人女性164人、子供98人を含む944人が渡航しました。山口県人が420人、広島県人が222人と西日本からの移民が多かったようです。1894(同27)年の第26回が最終で、ハワイ官約移民は全体で約2万9,000人に登りました。その約2割は女性だったといわれます。

移民たちは日本政府から3年で400円貯まると言われ、稼いだお金は郷里に送ったり帰国する際に持ち帰ったりしました。天引きなどがあったので言われた通りの貯金はできなかったようですが、それでも1891(同24)年末時点で移民から広島県内に送られた金額は合計27万円に達し、当時の広島県予算額の54%程度であったといわれます。郷里への仕送りもあるので必死に働いたのでしょう。ハワイでの評価は高く、現地から日本政府にさらなる派遣要請も届いています。

ハワイ官約移民の4割以上を占める山口県のなかで特に多かったのは「ハワイ移民の島」といわれる周防大島(すおうおおしま/屋代島)で、全体の官約移民約2万9,000人のうち周防大島出身者が3,913人を占めています。これは明治期の周防大島の人口が約7万人と多く、食料不足になったことなどによります。現在、島内には移民成功者の旧家(旧福元邸)を改築した日本ハワイ移民資料館があり、官約移民と私約移民13万人分の渡航記録の検索など写真や資料から周防大島とハワイとの交流の変遷を知ることができます。

周防大島の南に浮かぶ沖家室島(おきかむろじま/訂正)は官約移民が始まる頃に漁業船団を組んで遠方へ出漁するようになった“漁業の島”です。沖家室島からの移民はハワイだけでなく朝鮮・中国・台湾・ブラジル・北米・南洋にも広がっていますが、農業労働移民が多かったハワイでも漁業に携わってハワイの水産業を盛んにしました。『東和町誌』によると、1916(大正5)年当時、ヒロ(ハワイ島)に57人、ホノルル(オアフ島)には49人の“沖家室人”が住んでいたということです。

4月7日訂正 沖神室島⇒沖家室島