現代時評《『屍の街』にみるヒロシマの心》井上脩身

広島原爆の日の8月6日、松井一実広島市長は平和宣言のなかで、5月のG7広島サミットに触れ、「真の世界平和を祈念する『ヒロシマの心』は、皆さんの心に深く刻まれているものと思う」と述べた。「ヒロシマの心」とは被爆者の実体験から生み出された憤怒の心にほかならない。だが、78年がたった今、それを表現できる被爆者は少なくなり、悲劇の伝承が難しくなっている。こうしたなか、原爆文学作家、大田洋子の小説『屍の街』の原稿を世界記憶遺産として申請されることになった。登録されるためには、政府のバックアップが不可欠だ。「広島出身」が看板の岸田文雄首相の核問題に対する本気度が試されている。『屍の街』を世界記憶遺産に、と表明したのは、広島市の市民団体「広島文学資料保全の会」。7月26日、原爆詩人や作家が残した直接原稿、日記など6点について、ユネスコの「世界の記憶」(世界記憶遺産)への登録を市とともに申請すると発表した。このなかで2021年にも申請した原爆詩人、峠三吉の「原爆詩集」の最終原稿などの5点に加えて、今回、新たに『屍の街』の直接原稿306ページ分を加えた。(7月27日、毎日新聞)
私はこの記事に接するまで、大田洋子という作家については、名前すら知らなかった。早速、『屍の街』(平和文庫)を取りよせた。
大田は1903年、広島県生まれ。1929年、処女作『聖母のある黄昏』を発表後上京。1940年、『桜の国』が朝日新聞の懸賞小説に当選、松竹で映画化され、新進作家としての地位を築いた。1945年、広島に疎開し被爆。大田は原爆が投下された街の実相を、「これを見た作家の責任」として『屍の街』を書いた。小説の形をとっているが、実態はレポートである。

大田が住んでいた白島九軒町(中区)は爆心地から北に約1・5キロのところ。原爆投下時、大田は二階でぐっすりねむっていて「そのとき私は、海の底で稲妻に似た青い光につつまれたような夢を見た」。外を見ると「見渡す限り壊れ砕けた家々」。「世界の終わるときに起るという、地球の崩壊なのかもしれない」と大田はおもった。河原(京橋川)におりていくと、大勢の負傷者がいる。「どの人もみな、蟹がハサミの着いた両手を曲げているあの形に、ぶくぶくにふくれた両手を前に曲げ空に浮かせている。その両腕から、襤褸切れのように灰色の皮膚が垂れ下がっている」。その光景を、「戦争と思うことは出来なかった。戦争の形態ではなく、一方的な力で押しつぶされている」と表現した。
大田は顏に深いキズを負っており、市内の逓信病院に向かった。どこもかしこも累々としている死体を大田は人間の目と作家の目という二つの目で見つめる。「医者の手に縋りつくまえに生命をうしなってしまった人々の惨めな姿を見ると、そこに無念の魂が陽炎のように燃え立っている」と感じる大田であった。
ほどなく大田は爆心地から約20キロ北西の玖島(現・廿日市市)という山あいの里に逃げた。原爆投下から20日ほど過ぎると、広島から来ていた被爆者が次々に死んでいった。ほとんどの人はけがや火傷をしていないのに命を落とす。「未知のものによって無理遣りに殺される」。大田は「死ぬことの怖ろしさ」でふるえた。
大田は考えた。「今度の大きな戦争こそは、人間同士がはじめたものではないのかも知れない。そうでなくてはあまりにも劇しくおそろしすぎる。宇宙のもっとも新しい現象なのではないのだろうか」

212ページにわたる同書の内容を紹介すればきりがない。重要なのは、青い閃光が原爆によるものであることすら知らなかったときに、被爆した作家の目で見た広島をつぶさに記録したことである。大田から見た原爆は「戦争ではなく一方的な力で押しつぶす地球の崩壊。もし戦争ならばそれは人間同士がはじめたものではない未知のもの」であった。
だが、事実は戦争によって起きたものであり、しかも科学者が開発し、アメリカの大統領が命じたものであった。「人間ならそんな激しくおそろしいことをするはずがない」という大田の思いは、現実の歴史から見るとあまりにも甘い想念であった。
だが、私はそこに「ヒロシマの心」を思う。「人間なら地球を崩壊させることをするはずがない」。核を持つ国々のリーダー、核抑止に頼ろうとするリーダーたちが問われているのは「人間の心」なのである。冒頭、岸田首相の本気度が試されている、と述べた。もし首相が『屍の街』を読んでいたなら、自分に「人間の心」があるか自問自答したはずだが、防衛費を大幅に増額させる首相に、そのような姿勢はうかがえない。
大田は足の踏み場もない死体の中を歩きながら、空に向かって言った。「永遠の平和をかえしてください」。返せるかどうか、いま瀬戸際である。