現代時評《袴田事件にみる司法の人権意識の欠如》井上脩身

袴田事件について検察側は7月10日、再審公判で有罪を立証することを明らかにした。シロであるはずの袴田巌さんをクロに引き戻そうというのである。再審請求審で裁判官が「証拠の捏造」を指摘したように、この事件の本質は、捜査当局が証拠をでっちあげ、袴田さんを死刑台に送ろうとしたことにある。原審の静岡地裁では主任裁判官がでっちあげを疑い、袴田さんを無罪とする判決文を書いたが合議でひっくり返り、死刑判決になるという異例の展開をたどった裁判である。本来、原審で無罪になるべき事件が、事件発生から半世紀以上も過ぎたいま、なぜ再審で白黒を争わねばならないのか。わが国の司法には人権意識が欠如しているため、とみるほかない。

袴田事件は1966年6月、静岡県清水市(現静岡市清水区)のみそ製造会社の専務宅で、一家4人が殺害され、放火された事件。住み込み従業員だった袴田さんのパジャマに血痕らしき染みが付着していたことから逮捕され、袴田さんが犯行を自供。起訴され、公判が始まった。
事件から1年以上がたった1967年7月、みそ工場のタンクからズボン、ステテコなど血がついた5点の衣類が見つかった。袴田さんはパジャマ姿で殺人、放火を行ったと自供しており、検察側は自供に沿って立証を進めていた。こうしたなかで血染めの衣類が見つかったということは、真犯人は別にいて、袴田さんはウソの自白をしたと考えるしかない。事実、弁護人は「無罪の新証拠」と小躍りした。
検察側は袴田さんを釈放し、公訴を取り下げるとともに、真犯人を見つけだすため、捜査を一からやり直さねばならなかった。しかし、検察側がそのようなことを行った気配はない。なぜか。捜査当局は5点の衣類が別の真犯人のものでないことを知っていたからにほかならない。検察側は証拠を作りだし、「決定的証拠」に仕立てあげたのである。
袴田さんが「パジャマはウソで、ほんとうは5点の衣類でした」と自白を変えたのならともかく、袴田さんは初公判以降、一切犯行を否認しており、みそタンクでの5点の衣類の発見は誰がどう見ても不自然であった。裁判官が証拠をつぶさに検討したなら、別の真犯人が残した衣類か、もしくは捜査当局によるでっちあげの疑いをもったはずである。
主任裁判官は左陪席の熊本典道判事だった。第17回公判で検察側が冒頭陳述をやり直し、犯行着衣をパジャマから5点の衣類に変更したとき、熊本判事は被告人の無罪をうかがわせる物証との心証をもった。熊本判事は「恐らく警察のねつ造だろう」と思ったという(尾形誠規著『美談の男――冤罪袴田事件を裁いた元主任裁判官・熊本典道の秘密』鉄人社)。判決言い渡しは1968年9月と予定されていた。判決文起草を担当した熊本判事は冒頭に述べたように、被告人を無罪とする判決文を書いた。しかし3人の裁判官による合議で、ほかの2判事が自白を重視。前掲書によると、右陪席判事は最初から有罪の心証をもっていたので、熊本判事は裁判長に期待した。裁判長は自白調書の存在は無視できないと述べ、多数決にしたがって有罪に決定。無罪を主張した熊本判事が死刑判決を書く皮肉な結果になった。
同書によると、裁判長は自白をどう判断するかについて悩んでいたという。袴田さんの当初の自白だけで死刑とすることに迷いがあったのであろう。裁判長に「疑わしきは被告人の利益に」との人権意識があれば、袴田さんは原一審で無罪になっていたのである。1980年11月、最高裁で袴田さんの死刑が確定した。

再審が行われるのは「(原審で確定した)罪より軽い罪を認めるべき明らかな証拠をあらたに発見したとき」(刑事訴訟法435条)なので、提出される証拠には新規性と明白性が求められる。袴田事件においては、5点の衣類の発見にまさる新規、明白なシロの証拠があるはずがない。再審の道は厳しかった。
弁護団は苦労のすえ、みそタンクにつけられていた着衣の血痕の色に焦点を絞り込んだ。実験の結果、血痕の色調が黒褐色に変色、赤みが残っているとする確定判決と矛盾することを突き止めた。2023年3月、東京高裁(再審請求控訴審)は弁護側の主張を認め、再審開始を決定。検察側が特別抗告を断念したため、静岡地裁で再審が行われることになった。
これまでの4件の死刑再審事件の全てが無罪になっていることから、袴田事件も無罪になる公算は大きいとみられている。そうなったとても、事件はそれでは終わらない。捜査当局が証拠をでっちあげたにもかかわらず、二人の裁判官が見抜けなかった点について、これまで何ら考察されてこなかったからである。裁判官は先入観を排除して証拠を正面から分析し、正しい結論に導く。有罪について疑問点があれば、「疑わしきは被告人の利益に」の観点に立つ。裁判官としてこうした判断がなされなかったら、被告人の利益は保たれない。
検察側が有罪立証方針を示したことで明らかになったことは、証拠をでっちあげたことへの反省が全くないということである。再審で、検査官の人権意識の欠如が糾弾されるべきことはいうまでもないが、裁判官もまた誤判したことに対する反省の有無が問われねばならない。再審の判決に際し、裁判官から何ら反省の声がないようであれば、第二、第三の袴田事件は起こらないと言い切ることができないのである。