現代時評《LGBTQ法案と旧統一教会の影》片山通夫

「自分の性別を自分がどう認識しているか」は個々の認識であり他人がとやかくいうべき問題ではないという大前提が自民党保守派の意見には無いように思える。だからなのか、この問題を法制化しようとすれば、突然本日からは《私は女、だから女湯に》となりかねないから問題という意見もそのあたりから聞こえてくる。しかし仮に突然だとしても、それが以前からもちろん以後も継続しているならば是認すべきだと思えるのだが。突然その時だけというのは即ち犯罪。

どうも彼ら保守派の考えの背景には「旧統一教会」の影が感じられるのは筆者だけか。たとえば自民党保守派は第一条にあった「差別は許されない」という文言を削除し、第三条の「基本理念」では「不当な差別はあってはならない」に改めた。東京新聞の記事によると《「許されない」という表現を避けたのは、事実上の禁止規定と解釈され、当事者が訴訟を乱発しかねないという意見を踏まえたためだ。保守派への配慮がにじみ、立憲民主党は「差別の意味を狭めるなら大きな問題だ」(岡田克也幹事長)と批判を強めている。》おまけにヒロシマでのサミットに体裁を整えるための道具にすることは決して許されるべきではない。

我々は我々の持つ日本国憲法に定める「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。(第19条)」を常に心しなければならない。無論性的マイノリティなど少数派の人々の権利なども制約すべきではない。それを「屁理屈をこねて」骨抜きにしょうとする勢力があることに驚く。こうした自民党保守派の懸念は同時にこの法案を骨抜きにしようという考えが底流にあり、それはそのまま旧統一教会への配慮ではないかと筆者には思える。