「異次元の人物がいるとしたら誰か」と尋ねられたら、ほとんどの人は大谷翔平をあげるだろう。子育て中の人に「異次元の子育てをしてください」と求めたら、どうするだろうか。大谷のような天才になってくれれば、とゼロ歳のときからバットとボールを持たせたとしても、異次元育児とはいえまい。赤ちゃんを多く産むための異次元の方法は、ときかれたらどうだろう。ほとんどの人は首をひねるにちがいない。当然だ。火星人にでもならないかぎり、次元の異なる「産めよ増やせよ」法などあろうはずがない。ところが岸田文雄首相は「異次元の少子化対策」を国政の柱に据えているのである。
「異次元」について、広辞苑には①異なる次元②日常的な空間と異なる世界――とある。これでは余計にわかりにくいが、①は大谷翔平のように、
可能と考えられてきたことを成し遂げること、②は宇宙ステーションのような地球世界とは別世界のこと、というような意味であろう。日銀の黒田東彦前総裁が「異次元の金融緩和」と言い出したことから、「異次元」という言葉が独り歩きし始めた感があるが、黒田氏は「常識外れ」という意味で使ったのであろう。「常識外れの低金利」政策の結果、「常識外れの円安」という副作用を生んだが、本稿は金融政策がテーマではないので、深入りはしない。
異次元の少子化対策は今年1月4日、年頭の記者会見で表明。政府は3月31日、そのたたたき台をまとめ、①児童手当の支給対象の拡大②給食費の無償化に向けた課題整理③出産費用の保険適用④男性育休の取得率向上策⑤高等教育の奨学金の拡充――などを盛り込んだ。必要な予算は数兆円規模になるとみられる。
この「異次元対策」とは別に、「出産育児一時金」の増額分の一部を75歳以上の医療保険料引き上げで賄う健康保険法の改正案が12日、衆院厚生労働委員会で可決した。これまで42万円だった一時金を3月から50万円に引き上げることにともなう財源として、年金収入が年153万円を超える75歳以上の人(全体の4割)の後期高齢者医療保険料を段階的に引き上げる。
この措置について「給付は高齢者、負担は現役世代」というこれまでの医療保険の在り方を見直し、「全世代型社会保障」にすると政府は説明している。この観点に立てば「出産費用の保険適用」の財源について、高齢者の保険金が狙われることは火を見るよりも明らかであろう。出産費用の保険適用については、菅義偉前首相が提言したことから、たたき台に入れられたもので、その財源として介護保険料を引き上げる案が出ているという。苦しい年金生活者からさらにしぼり取ろうというのであろうか。
黒田氏の異次元金融緩和に関し、「異次元」は「非常識」の意味であると述べた。岸田首相も「非常識」の意味で使っているようである。「異次元の少子化対策」とは、「高齢者をいじめる非常識な少子化対策」というわけである。
仮にそうだとしても、子どもを増やすためであるならば、高齢者もある程度は協力しなければならないであろう。だが、たたき台にあげられた政策は「少子化対策」というよりも、むしろ「子育て対策」なのである。出産や子育てに際して、国や地方自治体から手厚い支援があれば、子どもを産む人が増える可能性があることは否定できない。しかし、若い人たちたが子どもをつくらない大きな理由は、子どもの将来への明るい展望をもてないことである。
我が国のGDPは1997年をピークに20年以上停滞し続けている。このため非正規労働によって経済的に厳しい暮らしを余儀なくされている人が増える一方。こうした人たちは、将来の見通しがたたず閉塞感にさいなまれているのが実態だ。実際、日本財団が2019年に18歳を対象に行った調査では、50年後の日本について72・8%が不安に感じると答えている。コロナ禍やウクライナ戦争、円安、物価高というマイナス要因が加わったいま、将来不安をいだく若者がさらに増えていると思われる。
いま政府に求められるのは、そうした若い人たちに、将来への明るい展望を示すことであろう。経済面だけでなく、近隣諸国との平和の維持・構築、共存・共生できる社会づくり、文化・スポーツなどを享受できる暮らしなど、さまざまな面で、30年~50後のしっかりとした未来像を描き出してはじめて「異次元の少子化対策」といえるのである。
岸田首相に「しあわせな国」づくりへの信念があるようにはみえない。にもかかわらず「異次元」という言葉を使うのはなぜか。おそらく「大変なことをしてくれるのでは」という期待感を国民にもたせるためであろう。将来展望を示せないかぎり、それはまやかしでしかない。「異次元対策」は仮面に過ぎず、実態は「低次元対策」なのである。