ONCE UPON a TIME 外伝 ”いよいよアメリカ”片山通夫

Golden Gate Bridge

横浜を出て2週間ほど経った。サンフランシスコに着く。しかしその前に海流の影響か海はすごく荒れた。海流のせいだとかいうらしいが、英語の説明は正直よくわからなかった。汽船は1.5万トンの大きな船。太平洋を渡って来て初めての揺れだった。揺れが収まったところで美しい橋が目の前に現れた。Golden Gate Bridgeである。なぜ金門橋と呼ばれるのかは英語がわからなかったのでその時はわからなかったと正直に白状する。
いよいよ上陸だ。体育館のような広さのイミングレーションと税関が控えている。ボクは一応アメリカの通過ビザを持っていた。通過ビザなのでその先何処へ行くのかが明確にしなければならない。ボクはメキシコへ行くといった。グレイハウントという全米をカバーするバス会社のメキシコシティまでのバスチケットを見せた。

 

ONCE UPON a TIME 外伝 ”ホノルル上陸”片山通夫

クリーブランド大統領

4月の日本は寒くはないが決して暑くはない。横浜では桜はすでに散って東北辺りで満開だと思われた。前に書いたが乗っていた豪華な客船はクリーブランドというアメリカ大統領の名前がつけられていた。
それはともかく、船はハワイ・ホノルルに着岸した。24時間だったかの滞在である。下船時の持ち物は現金、水泳具一式、カメラだった。残念ながら国際免許はもっていなかった。まさかハワイでドライブできるとも思っていなかったので、持ち出さなかった。
まず他の乗客とワイキキへ行き泳いだ。海の色は濃く雲は白く空はあくまで青かった。

そうこうするうちに泳ぐのも飽きてきたのでレンタカーを借りようということになった。船で同室の仲間とで。
書くのが遅くなった。僕の部屋は所謂船倉で窓のない6人部屋だった。
レンタカーはすぐに借りられた。ただし前金。金額は忘れた。
その車であちこち走り、最後に日本から移民してきた大家族と知り合った。
総勢20人くらいいたと思う。なんでもバナナのプランテーションで働いているとの話氏だった。夕日に映える家族写真は圧巻だった。でもカラー写真でなくて今のようにデジタルでもなかったので後日郵送するということにした。

Once Upon a Time 外伝 ”ブルー・ライト・ヨコハマ”片山通夫

プレジデント・クリーブランド号(インターネットから)

1969年4月。ボクは横浜の大桟橋に向かった。最後にこの横浜港大桟橋のメモをつけておくが、開国日本の歴史そのものだと思う。
それはともかく、ボクは船で太平洋を渡りサンフランシスコまで行き、そこからアメリカ大陸を南下しメキシコへ行く予定。何しろ当時最も安いのは船だった。飛行機なんて高嶺の花。その船の名前はプレジデント・クリーブランド号。びっくりした。何しろ汽船で海を渡るなんてはじめてだし、ましてイギリス船籍の汽船・・・。船内すべて英語。おまけにテストケースだったのが、船の等級にかかわらずプールやデッキ、バーにレストランは本来あるはずの垣根が撤廃されていた。
ボクは当然昼は泳ぎ、夜はバーで過ごした。
このバーにはジュークボックスなるものがあり、レコード音楽が夜毎流れていた。そのバーでボクは「ブルー・ライト・ヨコハマ」というヒット曲を知った。この曲はご存じの通り1968年に出た石田あゆみという歌手の大ヒット曲。最も無骨なボクは音楽にはとんと知識がなかった。しかしこれは後日キューバででも困った。
MEMO
1859年 安政6年横浜港開港
1892年 明治25年イギリス波止場の延長線上に鉄桟橋架設工事着工
1894年 明治27年鉄桟橋(大さん橋)竣工約19m 長さ約457mメリケン波止場と呼ばれる
1895年 明治28年鉄桟橋に第一船「グレナグル」(イギリス船)入港
1923年 大正12年関東大震災で桟橋部陥没、上屋焼失
1945年 昭和20年進駐軍(米軍)が大さん橋を接収。サウスピアと呼称
1952年 昭和27年接収解除
1964年 昭和39年東京オリンピックに合わせて国際客船ターミナルが完成
2022年 令和4年 現・大さん橋ターミナル、リニューアルオープン20周年

訂正とお詫び

monolog の2023年1月16日の記事からタイトルというか、分類(カテゴリー)を変更させていただきます。この日の monolog から「Once Upon a Time 外伝」に変更いたします。
お詫びして訂正します。

Once Upon a Time 外伝 ”ちょっとキューバを取り巻く歴史”片山通夫

1969年9月2日に亡くなったベトナムのホーチミミンを悼むカストロ・ハバナ・革命広場で

フィデル・カストロ、チェ・ゲバラらが中心となってアメリカ合衆国の影響が強かったキューバのフルヘンシオ・バティスタ政権を打倒し、武装解放闘争が成功したのは首都ハバナに入城した1959年1月1日。カストロたちが革命を起こしたのは、バチスタ政権がキューバを食い物にするアメリカ資本に対して何もできなかったことが主な原因。これによってキューバにあった、砂糖プランテーションを中心としたアメリカの権益は失われ、両国は険悪な仲になった。同時に首都ハバナのカジノなどの歓楽街からアメリカ人の姿は消えた。
その後、1962年10月から11月にかけて、ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設していた。これに対抗してアメリカはカリブ海でキューバの海上封鎖を実施した。結果、米ソ間の緊張が高まり、核戦争寸前まで達した一連の出来事が起こった。これをキューバ危機と呼ぶ。

ボクがキューバに渡ったのは1969年4月。つまり革命後10年の年月が経っていたが、アメリカの経済封鎖は続いていた。

Once Upon a Time 外伝 ”遂にビザを手に入れた。 ”片山通夫

それから2年ほど経った。何しろ東京に通う為の旅費稼ぎにアルバイト三昧。これでキューバに行けなかったら・・・。不安な日を過ごしたこともあった。当時は高速バスも無かったので夜行列車。東京駅の地下にある東京温泉と言う銭湯でさっぱりして。
キューバの記念日はそこそこ多くあったので、大使館のパーティが催された。その度にとは行かなかったが結構通ったと思う。時には寝台急行”銀河”に乗ったこともあった。

いずれにしてもボクはビザを手に入れた。それも6ケ月の滞在ビザ。

Once Upon a Time 外伝”一端の友好協会会員になったボク ”片山通夫

キューバの国旗

今から考えると本当に無謀だったが、ボクは時折東京へ行った。知った人もいなく、ただテレビやラジオ、それに新聞や雑誌という情報が得られるモノを図書館などで読み漁って東京へ行った。経済的に苦しかった。だから長くは東京におられなかった。ある日カストロやゲバラなどの名前にぶち当たった。なんでもカリブ海に浮かぶ小さな島でマイアミの近くだと知った。カストロやゲバラが当時のバチスタ政権を倒して革命を起こしたのがたった10年ほど前だとか…。若い国には若いだけ無茶が通る可能性が高い。その点成熟した国は持っているシステムにがんじがらめになって融通は利かなさそう。
ボクは日本キューバ友好協会という親睦を目的とする団体の末席を汚して東京にあるキューバ大使館に事あるごとに出入りした。いっぱしの友好協会会員になったわけだ。

Once Upon a Time 外伝 ”退路を断つ ”片山通夫

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けど結局ボクはフーテンにもなれなかったと思う。某広告代理店を紹介してくれた人とはその後交流はなくなり、いよいよ退路を断ってしまったわけだ。そりゃあ心細かった。かっこなんて決して良くはない。寅さんの妹、さくらの心配もよくわかる気がする。しかし大抵の人がそうだと思うが”退路を断つ”と火事場のバカ力よろしく、無い頭をフル回転させて次の手を考える。自分でいうのもなんだが、行動も早かった。最近のCMじゃないけど”そうだ、外国へ行こう”と決めた。ところが外国と言っても何処へ行けばいいのか?
そんな頃、世の中は騒然としていた。1970年の少し前のことだ。まだ60年安保の余波で次の70年安保がくすぶりだしていた。
安保闘争に関してはこちら

2023年1月17日・神戸

阪神淡路大震災が起こった日。

現代時評《河野洋平氏の良識》片山通夫

「70数年前に日本は決心したじゃないかと。尊い命を犠牲にして、我々今ここに繁栄を得ているのです。決して忘れません、決してあの過ちは繰り返しません。何十年も言い続けて、その結果がこの政策転換というのは、私はあり得ないと、そう思っているのです」「安倍政治というものに非常に大きな問題があったと思います」
元衆議院議長・河野洋平氏はTBSの「報道特集」という番組でこう語った。 “現代時評《河野洋平氏の良識》片山通夫” の続きを読む