「片山作品に見る冷戦下のフォトジャーナリズム」 003
祖国への帰還の夢とおく
米ソ冷戦はヤルタ会談に始まった、と述べた。その合意に基づくヤルタ協定で、樺太南部はソ連に返還されることとされた。この会談の3カ月後、同じアメリカ、イギリス、ソ連の3カ国によってポツダム会議が開かれ、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏。1951年のサンフランシスコ講和条約で南樺太の全ての権利を放棄することになった。
南樺太は日露戦争後の1905年のポーツマス条約によって日本の領土となり、1931年には、漁業、林業、製紙業を中心に日本人40万6557人が移住していた。
国内各地の炭鉱などと同様、樺太でも募集や連行などの形で朝鮮人を労働力とした。そのありようについて、戦後60年企画として2001年に和光大学総合文化研究所主催で開かれた「写真展と語り合い――サハリン残留朝鮮人の奇跡」における解説文がわかりやすい。実はこの企画は片山さんの写真を展示するもので、解説文の筆者はほかならぬ片山さんである。
1937年に始まった日中戦争とそれにつづく太平洋戦争によって労働力が不足し、朝鮮半島から補充されるようになった。戦局が進むにしたがい「朝鮮人狩り」が日常化し、応募だけでなく徴用・強制連行の形で樺太に送りこまれる朝鮮人が増えていく。また募集によって樺太に来た人も、国民総動員法によって2年の就業期間が無視され、改めて現地徴用となった。こうして樺太に送られた朝鮮人は推定6万人にのぼったという。
終戦直前の8月9日に対日参戦したソ連は同11日、南樺太の占領を開始。8月25日、ソ連軍が大泊を占領し、戦いが終わった。樺太にいた日本人はソ連の侵攻とともに引き揚げを開始。小笠原丸、第二新興丸、泰東丸の3隻の引き揚げ船がソ連軍の潜水艦の攻撃を受けて沈没、1700人が犠牲(3船遭難事件)になるなど、引き揚げには数々の悲劇をともなったが、10万人が脱出したとされる。
ソ連は1946年、南サハリン州を設置、翌年、サハリン州に編入した。
(以降は本稿においても「樺太」から「サハリン」に変える)
朝鮮人はサハリンに置きざりにされ、ソ連の統治下で生きていかねばならなくなった。片山さんは写真展の解説のなかで「国際政治の荒波をまともに受けた。そして、物言えぬ生活、無国籍の悲哀をなめながら、祖国への帰還を夢見て半世紀以上の長さに渡る生活を余儀なくされた」とつづる。そして「無国籍」について「朝鮮戦争の結果、朝鮮半島が北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と大韓民国に分断された後、ソ連統治下のサハリンでは大韓民国は存在しない」とし「サハリンに取り残された人々に、ソ連当局はソ連籍を、北朝鮮領事館は北朝鮮籍をとるように執拗に勧めた。しかし、いつの日にか祖国に帰れる、と夢見る人たちは無国籍で過ごした」のだ。
片山さんはいう。「朝鮮半島とサハリンに住む朝鮮人たちの運命はまさに戦争(冷戦を含む)の被害者と言える」と。サハリンの朝鮮人こそ棄民の最たるものなのである。
ソ連の崩壊後の2000年2月、55年ぶりに1000人が永住帰国した。だがなお多くの年老いた人たちがサハリンに残っている。サハリンの朝鮮人問題をライフワークとして取り組みはじめていた片山さんは、毎年のようにサハリンにおもむいた。極寒の中をもカメラを離さない片山さんである。その作品の一点一点に執念がこもる。
一本の木の棒にかろうじて体を支えて立つ皺深い女性の写真に私は涙を抑えることができない。一見、無の顔である。抗うことのできない不条理な運命の波にのまれてきた人生。その憤怒と諦念がないまぜになった鬱屈を皺の底に沈めた果ての無表情なのであろう。望郷の思いが実らぬまま亡くなった棺の中の人、その周りの底なし沼よりも深い悲しみの淵にたつ人たち。躍動感あふれる若いロシア人女性のキラキラした表情との余りの落差に、胸がかきむしられるおもいがする。
サハリンの朝鮮人のだれ一人、日本の敗戦による置き去りという、犯罪的ともいえる無責任の犠牲にならなければならない理由はない。片山さんのレンズがとらえた朝鮮人たちは、じっと耐えつつも、近現代史上の非道を告発しているのである。