連載コラム・日本の島できごと事典 その33《霊場・松島》渡辺幸重

雄島の岩窟(宮城県の観光情報マガジン『GOGO MIYAGI!』より) https://gogo-miyagi.com/45

日本三景といえば、松島・天橋立・宮島です。奥州の松島は、松島湾内外に300近い島々を浮かべ、白から灰白色の岩肌と松の緑の景観から国内屈指の観光地になっています。江戸時代から景勝地として知られる松島ですが、その前は“奥州の高野(こうや)”と呼ばれ、死者供養の霊場だったことをご存知でしょうか。
松島湾北西部にある雄島(おしま)は「松島」の名称発祥の地で、後鳥羽上皇から送られた千本の松をこの島に植えたことから「千松島(ちまつしま)」と呼ばれ、さらに広がって一帯が「松島」と呼ばれるようになりました。伝説によると、平安時代の1104年(長治元年)に見仏上人(けんぶつしょうにん)が山陰道・伯耆(ほうき)の国から雄島に来て庵を結び、それから12年間、島を一歩も出ずに法華経60,000部のお経を唱え続け、霊力を得てさまざまな奇跡を起こしたということです。雄島は諸国の僧や巡礼者たちが修行をする場となり、鎌倉時代後期には高僧・頼賢が亡くなるまでの22年間、雄島で法華経を唱えつづけ、見仏上人の再来とあがめられました。島には仏像や五輪塔(供養塔)、法名などが掘られた仏道修行の跡と思われる岩窟が約 50ありますが、かつては108あったといわれます。雄島にはいたるところに死者の浄土往生を祈念した石の塔婆である「板碑(石碑)」があります。遺骨・遺髪を納める骨塔もあり、中世に火葬骨を納骨する習慣が始まったようです。それだけではありません。2006年(平成18年)に周辺の海底から2,800点を超える大量の石碑がみつかりました。江戸時代の紀行文に「白鷺が島に群がっているように石碑が見える」ことが書かれており、雄島は石碑だらけの島だったのです。雄島は「陸と海の狭間にある島=この世とあの世をつなぐ島」でした。そして、島に架かる渡月橋は俗世との縁を切る「悪縁を断つ橋」でした。海底でみつかった石碑は明治時代末?大正時代にかけて行われた雄島の公園化事業の際に邪魔になって捨てられたようです。精神世界を大事にすることも人間社会を豊かにすることにつながると思いますが、近代化はそういう余裕をなくしてしまったということでしょうか。俳人・松尾芭蕉は1689年(元禄2年)に弟子の曾良と雄島を訪れました。実は、「霊場・松島」が「観光地・松島」に変わるきっかけを作ったのは松尾芭蕉だと考えられています。
ちなみに「松島や ああ松島や 松島や」という句は芭蕉が詠んだものではありません。江戸時代後期の狂歌人・田原坊(たわらぼう)の「松嶋や さてまつしまや 松嶋や」の句が変えられ、間違って伝わったとか。芭蕉は松島では「島々や 千々にくだきて 夏の海」と詠んでいます。

写真:雄島の岩窟(宮城県の観光情報マガジン『GOGO MIYAGI!』より)

「松島 雄島」へ行ってみた! 俗世と隔離された霊場の島