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宿場町シリーズ《有馬街道、小浜宿》文、写真 井上脩身
歌劇の町の酒造りの村 ~種痘免許を持つ医師がいた~

除痘館が山中良和に発行した種痘医免許証(ウィキペディアより)

手塚治虫が『陽だまりの樹』をかきだして40年になると何かの記事でみて、この連載漫画をよんでみた。幕末の動乱に巻きこまれながら、種痘の普及につとめた医師、手塚良庵の物語だ。良庵は緒方洪庵の適塾に学んだという。適塾のホームページを開いてみて、適塾が運営する除痘館が摂津・小浜村の山中良和に種痘医免許証を出していることを知った。小浜は現在の宝塚市のほぼ中央に位置し、治虫が5歳のころから住んだ村だ。調べてみると小浜には有馬街道の宿場があり、山中家は宿場内で造り酒屋を営んでいたことがわかった。宿場跡は宝塚大劇場から東に1キロしか離れておらず、治虫も宿場跡を訪ねたにちがいない。歩きながら良仙と山中良和が治虫の頭の中で重なり合ったかもしれない。そんな思いにかられ、小浜宿跡をたずねた。MORE

現代時評《ワクチン騒動》片山通夫

 今更だがワクチンといえば猛威を振るってる新型コロナウイルスに対するワクチンを指す以外にワクチンはないほどである。ところが聞き及んだところによるときっと一部の話だろうと思うのだが、関東ではあまり接種が進んでいないとか。何しろ知り合いの知り合いからの情報なので確認のしようがないのだが、65歳以上の方のワクチン接種の話である。

その話を簡単に書くと「狂犬病の予防注射を老犬に打つとなぜかは知らないが老犬が死亡するケースが多い。しかるにコロナワクチンを65歳以上の我々に打つということは、老人は早く死ねということだ。そんな手の乗るものか」
そういえば自衛隊が開設している「東京大規模接種センター(東京センター)」だが、対象者を都内在住者から近隣の県在住者に代わり今や全国に拡大された。先に述べた知り合いの知り合い情報を裏付ける話だと妙に感心した。都知事は「東京に来ないで」と言っているのに、何ともちぐはぐな国と都だ。

筆者の友人も「何となく不安」だと口にしていた。偏見かもしれないし偶然かもしれないが、男性のほうが女性よりもワクチンに対する恐れがあるように思える。筆者の女性の友人達は知った限り、みんな早く二回目の接種を済ませて遊びに行こうと相談している。ぶつぶつ言ってるのは男ばかりだ。

ところで台湾のワクチン話。コロナ対策優等生だった台湾だが、5月に入って感染者が増えだした。台湾も当然ワクチンの入手を目指して努力していたが、「中国の妨害で」買うことができなかったらしい。その状況を訴えるとわが国が東日本大震災の時に200億円もの支援を受けたという理由で英製薬大手アストラゼネカ製のワクチン124万回分を台湾に提供した。それより先に中国が自国製のワクチンを提供すると表明したが台湾は「恐ろしい」と受けとらなかった。
「アストラゼネカ製のワクチンには副反応についての深刻な症例報告がある。当然、こちらの日本人社会からは、まるで“毒見役”だ」と在台湾日本人が声をあげたという情報も。日本に礼を言う意味で「在台南市日本人から接種したい」という台南市当局。どこまでが本当なのかわからないが、中国が絡むとワクチン問題も複雑になってくる。

はてさてワクチン騒動はまだまだ続きそうだ。

参考

ファイザーー製、モデルナ製、アストラゼネカ製の3種類のワクチンの違いとは

日本からのアストラゼネカ製ワクチンに、台湾在住日本人は「中国製打ちたい」の声

ファイザー製で感染予防効果を確認

連載コラム・日本の島できごと事典 その27《家人(やんちゅ)制度》渡辺幸重

 1609(慶長14)年、薩摩藩は徳川家康の許しを得て琉球に侵攻し、沖縄全域を半植民地として支配しましたが、琉球国に属していた奄美群島は分割して直接支配しました。財政が厳しかった薩摩藩は奄美にサトウキビの単作を強制し、年貢として黒糖を取り立て、搾取を強めていきました。1830年からは黒糖を藩が買い入れる制度を作り、島民同士の売買を禁止、売買する者は死罪となったそうです。奄美で島民の唯一の食料であったサツマイモの畑もほとんどサトウキビ畑に転換され、人々は過酷な労働のもとで日常の食料にも事欠くようになり、奄美大島・徳之島・喜界島での困窮状況は「黒糖地獄」と呼ばれました。そのなかで豪農のユカリッチュ(由緒人)・一般農民のジブンチュ(自分人)・農奴身分のヤンチュ(家人)という三階層の身分分解が進みました。ユカリッチュは数人から数百人のヤンチュを抱え、自己の私有財産として売買もしました。『大奄美史』(曙夢著、1949年)は「これが即ち謂ふところの『家人』制度で、ロシヤの農奴制にも劣らない一種の奴隷制度であった」としています。明治政府は、1873(明治4)年に膝素立解放令(家人解放令)、翌年に人身売買禁止令を出しますが、解放されたのは当時1万人以上とみられる家人のなかの千人足らずだったと『大奄美史』は指摘しており、明治末年までこの制度が続いたようです。
明治期になって薩摩藩統治時代が終わっても鹿児島県は砂糖の独占販売を継続しました。1872(明治5)年に設立された大島商社が黒糖販売を支配し、1879(明治12)年の大島商社解散まで続いたのです。その間、奄美の人々は黒糖の自由販売を求める運動を続けましたが、鹿児島に向かった陳情団が牢に入れられたり、西南戦争への出兵を命じられて35人のうち20人が戦死または行方不明になるという理不尽なこともありました。
奄美の黒糖は薩摩藩の有力な財源となり、財政難から逃れて明治維新の基礎を作りました。私は、薩摩藩の奄美搾取がなかったら明治維新はなかったと考えます。九州の南から台湾にかけて連なる琉球弧(南西諸島)の島々の歴史は日本の歴史そのものです。特に、九州と沖縄の間に埋もれがちなトカラ列島・奄美群島の歴史は日本社会の“質”を考えるとき大きな示唆を与えるということを忘れないでください。