戦争が奪った若き命

 15日は我が国が無謀な戦争に負けた記念の日である。世に「終戦記念日」と言い換えが行われている日でもある。筆者(片山)は長年、つまり1999年からサハリンで取材を続けて今日に至る。そんな中で「9人の乙女」の話を何度も聞いた。稚内には慰霊のための「殉職九人の乙女の碑(九人の乙女の像)」もたてられている。写真は激しい戦闘が行われた真岡郊外の日本軍の塹壕

周知のように彼女らは戦闘で犠牲になって亡くなったわけではない。碑文は次のように書かれている。 その中で交換台に向った九人の乙女らは、死を以って己の職場を守った。…静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた…

  簡単に言うと真岡(現ホルムスク)にあった真岡郵便局に勤務していた9人の電話交換手が青酸カリで自決したという事件である。碑文にあるように「死をもって己の職場を守った」のかどうかはともかく、ソ連軍の真岡上陸に際して自決したのである。
彼女らの自決が「軍による強制」だったという説はどうも間違いだったようだ。「一人、もしくは複数の軍人の強制」だったという説も、沖縄のそれのようではなかったようである。ではなぜ彼女らは自ら命を絶ったのか。彼女らの死が必要だったのか否かはここでは問わない。いや問えない。

今だから言えることもあろうが、当時の樺太の状況は混乱を極めていた。所謂玉音放送は8月15日であり、樺太にもその声は放送されていた。しかしソ連軍は侵攻を止めず戦闘が続いていた。当時のソ連は日露戦争で失った南樺太の奪還を目的としていたように思える。

このあたりの様子はウイキペディアイタリック体)に詳しいので転載する。

真岡では8月16日、真岡郵便局長は豊原逓信局長から受けた「女子吏員は全員引揚せしむべし、そのため、業務は一時停止しても止を得ず」との女子職員に対する緊急疎開命令を通知し、女子職員は各地区ごとの疎開家族と合流して引き揚げさせることにした。・・・

同日真岡郵便局の朝礼で主事補の鈴木かずえにより残留交換手に関する説明がなされた。主事補は緊急疎開命令が出されて職場を離れる交換手が出ている現状を話し、仮にソ連軍が上陸しても電話交換業務の移管が行われるまでは業務を遂行しなければならないと前置きし、残って交換業務を続けてもらえる者は、一度家族と相談した上で、返事を聞かせてほしい旨を説いた。鈴木の言葉に誰もが手を挙げ、声を出して残る意思を現した。これに対し鈴木は、本日は希望者を募らないとし、一度家族と相談の上で班長に伝えるよう指示。後日希望を聞くと告げた。

 この主事補の「残留交換手の必要性」の記述が事実かどうかは筆者にはわからない。ただ状況を考えると事実だったのかもしれないと思えるだけである。いずれにしても多数の交換手は残留した。

   8月20日にソ連軍艦からの艦砲射撃が開始されると、真岡郵便局内も被弾するようになり、電話交換手12名は、別館2階に女性のみが孤立することになった。高石班長が青酸カリで服毒自決、続いて代務を務める可香谷が自決。ただし、自決の経緯については激しい銃砲火の中だったことや生存者が少ないことなどから、証言が錯綜しており、高石班長はむしろ若い交換手をなだめたとするものや、青酸カリを分け合って年齢の高い順に飲んだとするものもある。この後、1人また1人と合計7名が青酸カリ、あるいはモルヒネで自決した。そしてその後2人が後を追い、9人が自決した。

  いずれにしても、状況が状況なので情報は錯そうしていることは否めない。しかし青酸カリ等で自決したことは間違いではない。 ソ連軍兵士への恐怖が自決に走らせたのか、日本の官憲が自決に追い込んだのか、今となっては知りようがない部分もある。

しかし言えることは、その主たる原因は戦争である。そのことを肝に銘じて明日という日を迎えたい。