樺太夢幻018 《氷の筍》

いうなればツララが地面から生えてきたようなものだ。人々はこれを《氷の筍》と呼ぶ。勿論寒いから出来る。この写真は内淵(ブイコフ)の炭鉱で撮った。

「樺太夢幻」017

樺太の開発は主に製紙工場と炭鉱だった。製紙工場は豊富なパルプを生産し、島内の随所に港と鉄道を持ち、生産した紙を本土に運んでいた。一方石炭も「黒いダイヤ」と呼ばれていたことでもわかる通り我が国の重要な産業であった。写真は川上炭鉱(シネゴルスク)。

琵琶湖夢幻ー湖北・塩物語007(了)

ここ塩津には「塩津神社」がある。
主祭神 塩土老翁神
配祀神 彦火々出見尊 豊玉姫尊とあった。
塩土老翁神(シオツチノオジ(シホツチノヲヂ)は、日本神話に登場する神であり塩竈明神とも言う。『古事記』では塩椎神(しおつちのかみ)、『日本書紀』では塩土老翁・塩筒老翁、『先代旧事本紀』では塩土老翁と表記する。別名、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさ)。この神は土地の人々に漁業や製塩法を押してたといわれている。写真は塩津神社
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琵琶湖夢幻ー湖北・塩物語006

琵琶湖の最北端の町の名前は「塩津」である。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると以下の通りである。

塩津(読み)しおつ
滋賀県北部,長浜市西部の旧村域。琵琶湖北岸に位置する。1955年永原村と合体して西浅井村となり,1971年町制。2010年長浜市に編入。かつては湖港で,塩津街道(現国道8号線)の要地。平安時代から江戸時代まで琵琶湖水運の要津として栄え,北国の貢米や物資を船積みした。その後は農村となったが,往時の船溜りや問屋などが残る。

「樺太夢幻」015

 この白い風景は雪景色である。あまりにも暑いので気が狂ったわけではないが、少しでも涼をと思って・・・。この鉄路は豊原から北へ延びる樺太東線の鉄路。宮沢賢治も、岡田嘉子も豊原から北へ向かった。宮沢賢治は「銀河鉄道の夜」の構想を練り、岡田嘉子は恋人と手を携えて国境を越えてソ連に亡命した。

琵琶湖夢幻ー湖北・塩物語005

かつて琵琶湖の水運を担ってきたのが「丸子舟」である。丸船ともいう。おそらく中世末期ないし近世初頭のころから近年に至るまで,琵琶湖で用いられてきた特異な小型~中型船(50石~200石程度)を指す。若狭湾(敦賀,小浜)から峠を越えて琵琶湖経由で京・大坂に至るルートは,日本海岸各地と畿内を結ぶ物資流通の大動脈であったが,この湖上を南北に縦断する航路の主役がこの船であった。その外観上最大の特徴は,船首部の形状にある。つまり,おけや樽をつくるように,下方をややすぼめた短冊形の板を,縫釘(ぬいくぎ)で円筒形にはぎ合わせ,ちょうど縦半割りにしたおけのような形の船首をつくる(船名の由来)。
写真は「北淡海・丸子船の館」で。

戦争が奪った若き命

 15日は我が国が無謀な戦争に負けた記念の日である。世に「終戦記念日」と言い換えが行われている日でもある。筆者(片山)は長年、つまり1999年からサハリンで取材を続けて今日に至る。そんな中で「9人の乙女」の話を何度も聞いた。稚内には慰霊のための「殉職九人の乙女の碑(九人の乙女の像)」もたてられている。写真は激しい戦闘が行われた真岡郊外の日本軍の塹壕 “戦争が奪った若き命” の続きを読む