豊原(ユジノサハリンスク)から大谷(ソコル)を過ぎて北へ行くと落合(ドリンスク)という町に出る。そして落合から左へ、つまり西のほうへ進むと内淵(ブイコフ)という炭鉱がある。ここは樺太時代には帝国燃料興業が開発した炭鉱だった。帝国燃料興業は樺太人造石油を合併し、樺太内淵に工場を建設し内淵石炭を用いて直接液化を行なった。
人造石油:石油原油以外の原料からつくられた石油の類似物。石炭の低温乾留、石炭と水素の高温・高圧反応などの製法がある。石油資源不足の際に製造された合成石油をいう。
Lapiz Online & 片山通夫公式サイト photo:24の瞳映画村
豊原(ユジノサハリンスク)から大谷(ソコル)を過ぎて北へ行くと落合(ドリンスク)という町に出る。そして落合から左へ、つまり西のほうへ進むと内淵(ブイコフ)という炭鉱がある。ここは樺太時代には帝国燃料興業が開発した炭鉱だった。帝国燃料興業は樺太人造石油を合併し、樺太内淵に工場を建設し内淵石炭を用いて直接液化を行なった。
人造石油:石油原油以外の原料からつくられた石油の類似物。石炭の低温乾留、石炭と水素の高温・高圧反応などの製法がある。石油資源不足の際に製造された合成石油をいう。
豊原(ユジノサハリンスク)と真岡(ホルムスク)を結ぶ道路沿いにある真岡郡清水村瑞穂 (ホルムスク市管区(ロシア語)パジャルスコエ(ロシア語)の神社跡にあった。またこの瑞穂で虐殺事件が起こったことでも知られている。
事件は日本の敗戦時、すなわち1945年8月11日、ソ連軍は日ソ中立条約を一方的に破棄し、南樺太への侵攻を開始した(樺太の戦い)。敷香町北部では国境を越えてきたソ連軍と日本軍(大日本帝国軍のこと。以降も同様)との戦闘が、日本(大日本帝国のこと。以降も同様)のポツダム宣言受諾後の8月15日以降も続いていた。ロシアに残る資料によると、日本人たちは、呼び出した一人の朝鮮人をまず惨殺し、さらに朝鮮人を皆殺しにする計画を立て、翌日、三人を殺害し、ますます凶暴になって、朝鮮人が住む住居を襲った。日本人の細川博が後のソ連軍の裁判で行った証言記録によると、逃げて出てきた朝鮮人をサーベルでたたき切り、仲間とともに女子供も同じように殺した。こうして朝鮮人27人が虐殺された。
以下の写真説明(上)虐殺事件のKGB調書コピー
(下)犯人の一人細川博の調書へのサイン
明治政府は樺太開拓に北海道拓殖銀行を起用した。左の写真は今はサハリン州立美術館の「北海道拓殖銀行豊原支店」と、右の「大泊支店」。いずれも頑丈な石造である。大泊支店は現在利用されていない。
白浦という集落があった。
樺太の最も狭い(南北に短い)部分にこの集落はあった。
そして白浦はオホーツク海に面していた。ここから西へ行くと久春内という日本海側に面した街に出るバスが通っていた。そんな白浦には今も翩翻と白浦神社の鳥居が山の中腹に残っている。
樺太庁博物館は1937年8月1日に樺太の豊原で開設された博物館である。1896年にアレクサンドロフスク・サハリンスキーで創立した旧博物館の所蔵資料を引き継いでいて、前頁の国境境界標や樺太の動植物、鉱物、民俗、考古学などの資料が展示・収蔵されている。
無論建物も樺太時代のものである。
この日露戦争の結果、全島がロシア領だったサハリンは、樺太と名を変えて、島の南半分、つまり、ほぼ島の真ん中を通る北緯50度線を国境として、日本が統治した。
写真の国境境界標はユジノサハリンスクにあるサハリン州立博物館に収納されている。
当たり前のことだが、裏側はソ連(ロシア)側となる。
暑い毎日が続いています。
まだまだこの暑さが続くようです。
おまけに地震や豪雨・・・。いったい地球はどうなっているのでしょうね。ご自愛ください。
我が国は大国ロシアと一戦を交えた。所謂日露戦争である。戦いは1904年2月8日から1905年9月5日およそ一年半にわたった。主な戦場は 清国満州南部、朝鮮半島、日本海そして樺太。2個旅団編成の樺太遠征軍は、日本海海戦後新編制された連合艦隊の第3・第4艦隊からなる北遣艦隊に護送され、7月7日、樺太南部の亜庭湾岸に侵攻(後の大泊郡深海村女麗-メレイに上陸)した。
そして日本が勝利したことはその後の我が国の歴史に多大の影響を与えた。
次週から「樺太夢幻」を連載します!写真は日露戦争当時の日本軍上陸地記念塔・・・。
ご期待ください。