現代時評「責任」乱発首相の責任:井上脩身

安倍晋三首相は国会の答弁などで「責任」という重い言葉を乱発している。なかでも珍妙なのは、大半の憲法学者が集団的自衛権を「憲法違反」と判断している点について、「国民の命や国を守る責任は(政治家である)私たちにある」と述べたことだ。「政治家のみに責任がある」との思い上がり発言は、憲法の基本理念である国民主権とは相いれない独裁体質の持ち主であることを如実に示している。

では、集団的自衛権の行使によって、例えば米軍基地が密集している沖縄がミサイル攻撃されれば、どう責任をとるのか。安倍首相はひと言も語らない。野党からもその追及はなく、このままでは責任の所在があいまいなまま、独裁宰相の愚劣政策によって国民が多大な犠牲を強いられた暗黒時代の再現になろう。

首相の「責任発言」についてはノンフィクション作家の柳田邦男氏が、「政策の結果についどんな責任をとるのかを明白にしてもらう必要がある」(7月25日付毎日新聞)と、マスコミ上で取り上げた。この中で柳田氏は①7月3日の衆院平和安全法制特別委員会で「憲法9条変更の議論は熟していないが、議論が熟すのをただ待つのは政治家としての責任放棄」②同月10日、自民党インターネット放送で、「憲法学者と政治家は役割や責任が全く違う。憲法学者が反対しているから自分も反対だという政治家は、自分の責任を憲法学者に丸投げしている」――などの発言を挙げた。

柳田氏は「(集団的自衛権行使について)全国の憲法学者の90%以上が『違憲』だと批判しても、『政治家の責任は全く違う』として、閣議決定で憲法解釈を自由にできるような政策の進め方をすることが、責任論ですまされるのか」と、首相の“責任”を理由にした暴走を非難する。

首相には行政府の長としての責任があることは言うまでもない。その責任は、国民が健康で文化的な暮らしができる政策を立案し、国会で成立したものを誠実に実行することが第一義である。だがこれにもまして重要なのは、結果に対する責任である。法案上程に際して、政策の誤りのために国民が辛酸をなめるはめになった場合の責任のとり方を明らかにすることが、責任あるリーダーとしての当然の義務といえよう。

例えば株式会社の経営者が新規事業を展開したところ、予測に反して営業不振に陥り赤字を出した場合、会社や株主に対する責任を免れることはできない。場合によっては商法上の責任や社会的責任もとらざるを得なくなる。ましてや、一国の首相の責任の大きさは、東芝や東電の社長の責任とは比べものにならない。

しかし、安倍首相はせいぜい第一義的な責任を語ったに過ぎない。集団的自衛権によって防衛上の抑止力が高まり、平和が保たれる、と首相が考えたとしても、アメリカの戦争に加担した結果、自衛隊員だけでなく国民も戦火に巻き込まれる結果になった場合、首相としての責任は重大である。こうした結果責任についての自覚や覚悟もないまま憲法違反の集団的自衛権を行使するというなら、「無責任戦争政策」と断じるほかない。

「責任」について憲法は「両議院の議員は、議院で行った演説、討論又は評決について、院外で責任を問はれない」と定めているにすぎない。国家賠償法では「国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に損害を与えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任じる」と規定している。この条項では、安倍首相個人は直接責任を問われない。

一国の首相の外交・防衛政策の誤りが、何ら法的責任を問われることがない現状では、東京裁判のようにまたも戦勝国による裁定を待つことになろう。日本の首相や大臣の戦争犯罪は日本人が裁かねばならない。首相の独裁体質が露わになったいま、首相や閣僚の戦争責任を規定する「戦争犯罪法」の制定に向けた国民運動が求められる。