現代時評《市民を犯人視する共謀罪》:井上脩身

 

組織犯罪処罰法改正案という名の共謀罪法案が24日、衆議院を通過した。安倍一強体制のなか、今国会での成立は極めて濃厚だ。自民、公明の両党と日本維新の会は「テロ防止のために必要」とする一方で、「一般人が犯人視されることはない」と言い切る。はたしてそう言えるのか。全く普通の人が普通の会話をしただけで犯罪者となった例がこれまでにもある。「見えざるテロリスト」におびえる権力者を忖度し、公安当局が無関係な市民をも検挙・拘束してきた歴史から学べ、と私は訴えたい。

太平洋戦争勃発時に首相だった近衛文麿はテロを恐れていたといわれる。対米戦争に踏み切るかどうかの決断を迫られた1941年10月、陸相の東条英機らを荻外荘に呼んで協議した際、「戦争に自信がない」と述べたことなどから、軍部強硬派から「弱腰」と非難されていた。2・26事件は第一次近衛内閣発足(37年)の前年の出来事である。

真珠湾攻撃の日の41年12月8日、銀座の時計商手伝い、Hが東京憲兵隊に検挙された。容疑は国防保安法違反、事変惑乱罪などだ。前者は「外国と通謀し、治安を害する事項を流布」、後者は刑法の「人心を惑乱する目的で虚偽の事実を流布」する犯罪である。

Hの犯罪事実は以下の通り。

41年7月ごろ、東京・蒲田の自宅で内妻に「もし日本が米国と戦争すれば、結局戦争で勝っても経済戦では負ける。アメリカの飛行機は堂々たるもの。日本の間に合わせのようなもので対抗できるか」などと述べた(国防保安法違反)。また同年4月、やはり自宅で内妻に「近衛は陸軍のロボットだ。陸軍が出しゃばって近衛のようなお坊ちゃんを操っている。武器を持った軍人が政治をやれば、武器を持たない専門の政治家は恐ろしくて対抗できない」などと語った(事変惑乱罪)。

どこの家庭でもみられる夫婦間の会話だ。戦争批判や政府批判ではあるが、言論というより私語に過ぎない。これが憲兵の網に引っ掛かると「治安を害し、人心を惑乱するための流布」になったのだ。43年4月、東京地裁はHに懲役1年6月、執行猶予3年の判決を言い渡し、刑は確定した。(上田誠吉『戦争と国家秘密法』)

前記の法律を、共謀罪法案と同一に論じるわけにいかないことは言うまでもない。前者の場合、「森友や加計に特別な手立てをする安倍政権は許せない」と夫婦間で話し合うだけで犯罪になる。さすがに共謀罪法案の場合、家族が一体になって「首相を懲らしめる」ことを決め、誰かが台所の包丁をバッグにしのばせてはじめて犯罪になるだろう。

だが、本質的には大差はない。

Hのケースで考えてみよう。自宅の包丁を内妻の前に置けば、共謀が成立する可能性が出てくる。Hは「近衛はロボットだ」となじり、事実近衛もテロを恐れているのだから、「近衛を狙ったテロの準備罪」にでっち上げられかねない。

それにしても、Hと内妻との会話がどういうルートで憲兵に耳に入ったのだろうか。内妻が他意なく誰かにしゃべったのかもしれない。井戸端会議の内容が憲兵に筒抜けすることは大いにあり得たのだ。治安法の最大の問題は実はここにある。憲兵が国防保安法違反者の検挙のために市井の情報をかき集めようとしたように、共謀法が成立すれば、テロ犯人を捕まえるため公安警察は情報収集に躍起になるはずだ。その結果、世の中が「壁に耳あり」状態になることは目に見えている。

両手に爆弾を提げて「テロをやる」と叫んで歩くテロ犯はいない。普通の市民生活をしているテロ犯を捕まえようとすれば、国民一人ひとりを疑うしかない。共謀罪法案に賛成するということは、普通の市民である自分も疑われることを承認することなのである。