[:ja]現代時評《夫婦げんかもできない改正草案》:井上脩身[:]

[:ja]11月3日に憲法が交付さてれて70年を迎えたのを機に、その前日、横浜市で弁護士11人による自民党憲法改正草案模擬シンポジウムが行われた。同草案の推進派と反対派に別れて議論し合う形式をとりながら、同草案の問題点を浮き彫りにしようというのが狙いだ。主催したのは「九条かながわの会」。私は改正草案について「天皇を中心とした明治憲法復古案」と、当「現代時評」の中で指摘してきた。シンポジウムを聴いているうち、改正草案に表された明治憲法的天皇観は国の守りや基本的人権、さらには夫婦・家族の在り方にまで及んでいることに気づいた。自民党は「野党の協力を得て、可能なところから改正する」といっているが、彼らにとっての本丸は天皇条項なのである。
 これまで書いてきたことと重なるが、改正草案の天皇条項は次の通りだ。

前文で「日本国は長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家」とうたいあげ、1条(天皇)で「天皇は日本国の元首」と規定。逆に99条の憲法尊重擁護義務の規定から天皇を外した。 言い換えるならば、我が国固有の長い歴史を持つ天皇は憲法を超えた国民から崇められるべき元首、ということになろう。奉戴、元首、超憲法が改正草案における天皇3原則である。

現行憲法との違いをどう読み解くか。現行憲法は国民主権を基本とし、天皇は象徴としている。改正草案も同じ文言を用いており、一見、相似ているように装っている。しかし、「長い歴史と固有の文化を持つ天皇」とは、明治憲法の「万世一系ノ天皇」をやさしく表現しただけのことだ。「戴く」とは「頭の上にのせる」ことで、要するに崇めたてまつることにほかならない。国民の頭の上にのる天皇は明治憲法のいう「神聖ニシテ侵スヘカラス」存在といえるだろう。こうして超憲法的地位に立つ天皇が「元首」として行う権能は、「統治権ヲ総攬」にほかならない。では、改正草案のいう「国民」とは何か。それは天皇を戴く国民、つまり臣民に近いものであり、「象徴」は「国体」として尊崇し帰依する心の拠り所という、信仰に近い精神性を帯びたものとなる。

ところで改正草案は随所で「公益」と「公の秩序」という文言を使用している。例えば9条の2(国防軍)の第3項で「国防軍は(中略)公の秩序を維持」を国防軍の任務に含め、12条(国民の義務)は「常に公益及び公の秩序に反してはならない」と規定。13条(人としての尊重)でも「公益及び公の秩序に反しない限り、最大限に尊重されねばならない」とした。さらに21条(表現に自由)では「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動は認められない」と制限した。

この「公益」と「公の秩序」の意味は、明治憲法的憲法観からみれば明白だ。公益は天皇中心国家としての利益であり、公の秩序は、天皇を崇める社会としての秩序である。こうした国にするには、国民のだれもが天皇を敬うようにならねばならない。そこで改正草案は「国旗・国家の尊重」と「家族夫婦協力」を明文化した。

まず3条で「日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない」と規定。これによって、君が代を歌い、日の丸を掲揚することは教育現場にとどまらず、広く国民の義務になる可能性が高い。家族については、前文で「和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」とし、24条で改めて「家族は互いに助け合わねばならない」と定めた。

家族の規定があることについて、「家族の在り方は人それぞれ。憲法で縛ることではない」との批判がある。その通りだが、改正草案のいう家族は、こうした一般的な縛りにとどまらず、天皇を崇める上での社会の最少単位ととらえている点を見落としてはならない。平たくいえば、家族は助け合って、祝日には日の丸を揚げよ、ということなのだ。お父さんが玄関の前に揚げた日の丸の旗を息子が「日の丸は天皇賛美。オレは反対だ」と言って引き下ろすと、3条(国旗・国歌)、24条(家族協力)違反だけでなく、「非国民」として、12条(国民の責務)、21条(表現に自由)の違反に問われかねない。

70年余り前、天皇の名で多くの人が戦場に連れ出されて散った。それをめぐって夫婦げんかをしただけで憲法違反になる――それが自民党の憲法改正草案である。これが安倍晋三首相が狙う究極の憲法であることはいうまでもない。[:]