[:ja]現代時評《妄想は秋の夜長を駆けめぐる》:片山通夫[:]

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ジャガタラお春は出島へ帰っていた!?

どうも妄想癖があるように自分でも思えるから困ったもんだ。以前、Lapizという電子雑誌の取材で、九州・平戸へ、井上編集長と行ったことがある。その時のテーマは「隠れキリシタン」だった。過酷な運命をたどった一人の美少女「ジャガタラお春」を追って。
 お春が美少女だったかどうかは、問題ではないのだ。この場合、必ずこのような悲しい運命の少女は美少女でなくてはならないのだ。

さてお春は、ジャガタラ(インドネシアのジャカルタの古名)へ追放された。ジャガタラお春という名前のゆえんである。21歳のとき、かの地でオランダ人との混血男性で、同じく平戸を追放されていたシモン・シモンセンと結婚。シモンはオランダ東インド会社へ入り活躍したといわれる。そしてジャガタラ文というかの地から送られてきた手紙が実際に存在することも事実として知っておきたい。

この文には「千はやふる、神無月とよ」で始まり「あら日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや」と結ばれていて、お春が書いたものとされているが確証はないようだ。

そこで妄想が起きる。時は厳しい鎖国の世。外国との出入りは長崎の出島のみだった。実際は蝦夷地と呼ばれた北海道から樺太、そしてアムール川に沿って、中国へも交易のルートはアイヌ民族など北方少数民族の手によってなされていた。このことは今は触れない。

お春の夫はオランダ人と日本人の混血。日本語とオランダ語に通じている(だろうと思う)。おまけにオランダ東インド会社の社員。「日本恋しや、ゆかしや、見たや、見たや」と手紙に書くお春が夫に詰め寄って、いや夫を脅して出島通いのオランダ船に乗って出島まで来たというのは妄想か現か?。

平家の落人は宋の国へ。

今一つ、同じく井上編集長と北海道へ取材に行った時の事。アイヌの集落等をめぐり、静内市や沙流郡平取町等を歩いていて「義経神社」を見つけた。なんと、あの源義経が「モンゴルへ渡ったときに通った」という場所で、北方調査のため蝦夷地に来た近藤重蔵が義経像をアイヌの長老に与えたのが神社の始まりだとか。社伝によれば、義経一行は、むかし蝦夷地白神(現在の福島町)に渡り、西の海岸を北上し、羊蹄山を廻って、日高ピラトリ(現在の平取町)のアイヌ集落に落ち着いたとされ、そこで農耕、舟の製作法、機織りなどを教え、アイヌの民から「ハンガンカムイ」(判官の神ほどの意味か)あるいは「ホンカンカムイ」と慕われたという。

義経が全くつてのないモンゴルへ渡ったのなら、平家の一族が、清盛時代に交易していて、宋人を福原でもてなし、上皇に謁見させ、厳島神社に参詣させたという史実がある平氏一門の誰かが「徳島の祖谷や宮崎県椎葉村」など現代でも秘境と言われているところへ、鎌倉幕府の追捕に脅かされて隠れ住むより、思い切ってコネを使って宋の国へ逃げるのはできなかったのか。いや邪馬台国の時代でも、その後の奈良朝でも中国や朝鮮から海を渡って行き来していたのだ。絶対に平家一門の誰かが、いやもしかしたら安徳天皇以下重臣たちはこぞって宋船に乗りかの国へ・・・・。

秋の夜長のこれも妄想。[:]