現代時評《言論》:片山通夫

言論という言葉の持つ意味が、我が国では変わってきたように感じる。安倍首相の国会での聞くに堪えないヤジがその最たるものだ。彼は《言論の自由を謳歌している》つもりなのだろう。しかしそこでは品性を感じることができない。いやそれ以前に、彼は質問者に対してヤジっているのだから、答弁をまともにする意志を感じることができない。
 もうだいぶ前の話になる。1968年12月10日、日本人として初めてノーベル文学賞を授与した川端康成(当時69歳)が、12月12日にストックホルムのスウェーデン・アカデミーで行われた授賞記念講演において演説した芸術観・文化論がある。

そこでは、彼は日本人の美の心を端的に語る《美しい日本の私―その序説》は、世界に向かって我が国の古典文学や芸術を語り、伝統的な日本人の心、思想などを説いた。それは西欧とは異なる死生観もふくまれた文化論でもあった。

川畑康成が生きた時代は、今と比べて隔世の感がある。《美しい日本》という言葉の持つ意味が断然違う。かれはその講演の中という限られた時間で《西欧とは異なる伝統的な日本人の特質》を説いた。

しかし、昨今の我が国の《声の大きい人々》は、完全にこの《美しい日本の人々》を変質させてしまっている。

例えば《ヘイトスピーチをする人々、そして彼らと付き合う、もしくは付き合っていたことを隠す人々》、《なんでも金品の価値に置き換えて世の中を渡る人々》、《弱者を帰り見ず、平気で切り捨てる人びと》など枚挙にいとまがない。

声が大きいということが有利になる世の中は、間違っている。

それは、ネット上の《炎上》という現象についても、いうことができる。ほんのわずかな人々が《怪しからん》と断定してしまうと、その言に乗った有象無象の《匿名戦士ども》が、無責任に煽る。このどこに《美しい日本》を感じることができるのか、筆者には全く分からない。

 

例えば《日本のこころを大切にする党》という政党がある。党名から感じられるのは、まるで川端康成の《美しい日本の私》と同義語のようである。しかしこの政党の基本政策には《戦前への回帰》のイメージが付きまとう。例えばその基本政策の第一に《我が党は、長い歴史と伝統を持つ日本の国柄と日本人のこころを大切にした、日本人の手による自主憲法の制定を目指す。》とある。ここに見られる《長い歴史と伝統を持つ日本の国柄と日本人のこころ》は戦前の明治憲法の精神そのものだと感じるのは筆者だけだろうか。

本論に戻る。《言論の自由》と言ってしまえばそれまでだが、本来の自由をはき違えた言論や政権とそれに迎合する翼賛政党の言論のみが声高に叫ばれて、その他は委縮している現状は異常だ。マスコミをはじめ、心ある人びとは立ち上がらなければならない。国会での首相の答弁が的を得てなければ、徹底的に追及するのが「言論の使命」である。