条理ショートストーリー12《「噛んでみる ガムにほぞに 女性の肩にいい人に」》:白石阿光

満員電車を降りて地下ホームから地上改札口へ昇る階段はびっしりとした人の群れで埋まる。目の前には女性の肩や髪、背中が、近視眼にちょうどくっきり見える距離にある。
 そんなとき、女性の背中にあるファスナーを引き下げようという衝動にかられるのは自然な心理であろう。露になった肩を前に噛みつきたくなっても不思議ではない。

それを性的衝動と言うのは簡単だ。だが、男が目の前に突き出された女の肩を軽く噛んだのはそんなことではなかった。それは、小学校低学年の男の子が女先生のスカートの中に隠れる行為に似ていた。男はなにかを伝えたかったのだ。いや、なにかを意識してのことではない。だが、確かに何かを伝えたかったに違いない。無意識にしても、女の肩を噛むという行為が何かを伝えようとしないわけがないのだ。

「キャーッ!」という悲鳴とともに男は取り押さえられ、警察署に引き立てられた。

男は運が悪かった。“現場”は大都会の主要駅だったし、大きい警察署も近かった。何より、センセーショナルな記事が売り物の夕刊紙の社屋から駅も警察署も丸見えだった。

男が書いていたソーシアルネットワークシステム(大衆社会井戸端会議情報拡散システム)は即座に大勢の人によって白日の下にさらされた。

「学生は学業に専念すべきだ」「人は自らに厳しくすることによって、他者を思い、社会的存在を全うすることができる」「内面を見つめること、自らの細胞に刻まれた宇宙と真理を追求することが私に課された社会的ミッションである」ーーそこには厳しい倫理観が漂っていた。

一方で社会の不条理に対する怒りをぶつけたりもした。「完成していない原子力平和利用循環システムによる放射能拡散事故によって、平和な家庭の生活や生産のシステムすべてが破壊された」「研究目的以外の放射能施設全廃」ということも書き込んだ。

ネット上は「真面目人間の転落」「抑制されていた欲望が破裂」「仮面を被っていた性格破綻者」などの書き込みで溢れかえった。

夕刊紙は一面トップで報じた。「エリート人間の屈折と欲望」。そこには、「あんな優秀な人間がねえ」「真面目だと思っていたのに、あんな人間だったとは」「まわりにああいう人が普通の顔をして住んでいるなんて怖いです」ーーいつものような巷の声が紹介されていた。

原子力平和利用を主張するグループは、「反核主義者の実態を暴露する」として、原子力平和利用に反対する者は言うこととやることが矛盾しているというキャンペーンを張った。放射能拡散事故を告発し、原子力エネルギー依存社会からの脱出を主張しているグループからは、「彼は運動に参加していない。我々とはまったく無関係」という声明が出された。

男は素粒子論を研究する理論物理学者を目指していた。研究室の仲間からは「魔がさしたとしか思えない」という声しか聞こえてこなかった。

田舎の父親は気丈夫にインタビューに答えた。「子供の頃からキビを噛むのが好きでした。それがいけなかったんでしょうか。都会で住む人間にそんなこと、やらせなければよかった……」

噛まれた女は、サトウキビから作った調味料を食べていたのだろうか。サトウキビから作った燃料で車を運転していたのだろうか。それとも、サトウキビから作ったオイルを肩に塗っていたのだろうか。父親はそんなことを考えていた。

男は、変態だったのだろうか。男は、文化が異なる宇宙人だったのだろうか。男は、この社会から排除されるべき異常者だったのだろうか。

男は、数日後、処分保留で釈放された。警察署を一歩出たとたん、フラッシュの閃光が一斉に一点をめがけて炸裂した。それは何度も何度も繰り返された。男は立ちすくんだ。黒山の人だかりの報道陣の間をすり抜けようにも、すり抜ける空間は1ミリもなかった。男はいつまでも閃光の中で白く光った。

男はやがてはドラキュラになった。

☆◇☆☆☆☆☆◇◇◇◇◇◇☆◇☆☆☆☆☆◇◇◇◇◇◇◇☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆△△△▽▽▽▽▽▽○○◎◎♪♪♪♪♪#####%%%

私はナッツを思いきり噛んだ。私は明らかにイラついていた。500円のドイツビールを飲む。目の前の壁に無数にかかっている鳩時計がカッコ―カッコ―と鳴いた。

「なんで鳩がカッコーと鳴くんだ」。私がふと疑問を口にすると、それを耳にした店主が穏やかな口調で諭すように言った。

「ドイツではカッコー時計と言うんですよ」。

なに。すると何か。俺は、カッコーをずっと鳩だと思ってたのか?

おかしいじゃないか。なんで学校の先生もおふくろも教えてくれなかったんだ!

するってえと何か? 俺様がアホ~アホ~って鳴く鳩時計を発明して売ってもいいんだな。

「そういう問題ではありません」

どういう問題なんだよ!

「いえ、日本ではカッコーはなじみがないので、身近な鳩ってことになったんじゃないでしょうか。文化や自然環境の違いでしょう」

おまえ、なんでカッコーの肩を持つの?じゃあ聞くが、日本の鳩車をドイツに持っていけば“カッコーぐるま”って言うのか。

「それはどうでしょう。カッコーは木の上にいますから車になるかどうか……」

逆らうね、この人は。景品表示法(不当景品類及び不当表示防止法)っていうのがあるの、知ってる?

「知ってますよ。一時期大変でした」

そうでしょ。バナメイエビを芝エビって言っちゃいけないんだよ。オーストラリアイセエビを伊勢海老って言っちゃあいけないんだよ。

カッコーを鳩って言っていいの?

「さあ、そこは商慣行というか、お客様との信頼関係というか」

じゃあ、言われる方の身になってごらん。ヘクソカズラって知ってる?

「知りません」

屁と糞だよ。ひどいでしょ。バフンウニもかわいそうだ。人間には差別用語と言っておきながら、イザリウオだのメクラウナギなど動物にはいっぱい使っているよね。どう思う?

「ええ、少しずつ変えてると聞いてますが」

モドキもひどいもんだ。アユモドキってアユじゃないのか。アユより先に人間がアユモドキに名前をつければ、アユがアユモドキになり、アユモドキがアユになってたんじゃないのか。

ニセクロホシテントウゴミムシダマシって知ってるか? ゴミムシでもテントウムシでもないのに、ゴミムシに見せてだましたと言われ、ニセだとまで言われてんだよ。本人は、関係ないでしょ、って怒っているよ。

カッコー時計はカッコー時計! それができないんなら、カッコー時計モドキとか鳩だまし時計とか名前を変えろってんだ、このハトドケイヤ!!

〈鳩時計からカッコーが飛び出し、アホ~アホ~と鳴いた〉

☆◇☆☆☆☆☆◇◇◇◇◇◇◇☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆△△△▽▽▽▽▽▽○○◎◎♪♪♪♪♪#####%%%

人混みの中、目の前の若い女性のショルダーバッグのサイドポケットが空いている。ファスナーを閉めてあげましょうか。

ファスナーを閉めたらどうなるでしょう。彼女は中のものを盗もうとしている犯人と思うかもしれません。いや、そうじゃあないんです、と言っても、盗んだ物を仲間に渡したと勘ぐられるかもしれないのです。

実は、サイドポケットには何も入ってなかったということもあり得ます。もしかして、誰かに声をかけてもらいたくてわざとファスナーを開けておいたということはないでしょうか。外からはポケットに何が入っているかはわかりません。少なくともひし形の開口部には何も見えないのです。

階段を登り、そして降り、改札を通り抜け、私は右のエスカレーターへ、彼女は左の階段へ。そこでやっと、私はショルダーバッグの呪縛から解放されました。

☆◇☆☆☆☆☆◇◇◇◇◇◇◇☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆△△△▽▽▽▽▽▽○○◎◎♪♪♪♪♪#####%%%

◎戒名:掌上界天悟空南亭駄樂坊

男は言った。「今日は私の最後の日です」

友はあわてた。「待て! 何があったんだ。早まるな」。

男は言った。「私は毎日、“最後の1日”を生きています」

男の説明はこうだった。

――60歳になったら死を考えろ」と言われました。はて、何を考えればいいんだろう。

そこで、いつ死んでもいいように生きようと思ったんですが、自分がいつ死ぬかわかりません。最初は1年後に死ぬとして計画を立てました。1年経っても生きていました。それから1ヶ月後に死ぬ計画を立てました。1ヶ月経っても死にませんでした。

そこで気がついたんです。明日死ぬことにしようと。そして、今日一日に集中しようと。

友が聞いた。「1日だけじゃ、何もでできないじゃないか」

男は言った。「では、何ができると思いますか」

「今日しかなければ、美味しいものを腹一杯食べるとか、好きな人に会って話をするとか、思い残すことがないようにするよ」

男が聞いた。「次の日、たまたま生き延びたらどうしますか」

「同じことだ。同じことをするだろう」

男は言った。「私は、100年後、200年後まで続くことを考えます。後世に生きる人たちのために何ができるか、自分にしかできないことは何か、を考えて、今日一日を過ごします。そうすると、自分が考えたこと、やったことが今日で終わろうとも、次の世代の人につながるでしょう」

男はさらに言った。「明日がなければ、今日の自分が周りの人の印象に残ります。少しでもいい思い出を残したいと思えば、私は今日は悪いことをしないでしょう。明日生き残れば、明日も悪いことはしないでしょう。私はいい人としてみんなの記憶に残ることになります」

 

男の人生設計は120歳までも、200歳までも続いていた。男の目指すものは“永久機関の発明”だった。もしかしたら、“不老不死の薬の発明”ももくろんでいるかもしれない。

男の1日は永遠へと続く1日だったのであろう。

男は急に小唄を唄いだした。

♯♭雨や大風吹くのに 唐笠がさせますかいな(ハイ) 骨が折れまする