不条理ショートストーリー010《「疫学的生活因果律による政治風日常絵巻図(部分)」》:白石阿光

「行ってくるよ」

竜馬は靴ひもを結び終わるとそう言って立ち上がった。

「行ってらっしゃい」

妻はいつものようにさらりと送り出す言葉を口にした。そしてすかさず

「これ、ゴミ」

と言って白いビニール袋を突き出した。

「ハイッ」

竜馬は反射的に答え、人差指にゴミ袋の結び目を引っかけてドアのノブを回した。

その朝は雨が降っていた。

(まったく!バスはどう5して来ないんだろう。雨の日はいつもこうだ。ダイヤは3分か5分おきに来るようになっているのに今日はもう10分は待たされている。道が混んで遅れたとしても次々にバスは出ているのだから30分遅れ0のバスが目の前にいてもいいはずだ。通勤時間が終わって混雑が解消されると遅れたバスが連なって走るのだろうか。いや、それとも間引き運転となり、バス会社は効率のよい運行にほくそ笑むのだろうか。いやいや、バス路線には国や県が補助金を出していて、しかもダイヤや運賃も運輸省の認可事項になっているはずだからそんなことはするまい。客が一人もいなくても子供の電車ごっこのようにつながってバスは走るのだ。)

やっと5、6軒先の家の影にバスが見え、竜馬はほっとした。これで職場には20分ほどの遅れですむだろう。緊張がほぐれた瞬間、彼の左手の人差指の先で何かがかすかに揺れた。いつものカバンは小脇に抱えている。一体、この重さはなんだろう。考えようとしたその瞬間、「アッ」という声が竜馬の口から漏れた。

あー、やられた。ゴミ袋だ。

このままバスに乗って行って駅のごみ箱に捨てようか。だが、朝のラッシュのなかでこのゴミ袋を押し込む余裕があるだろうか。ウーム…‥。

竜馬は意を決して我家への道を歩き始めた。

これじゃ、だいぶ遅くなってしまうぞ。……マッ、いいか。どうせ雨の日は遅れるんだ。ゴミ袋をぶら下げながらバス停で突っ立っている自分の姿を思い出しながら竜馬はウフッと三遊亭円生のように含み笑いをした。

うつむきながらウフッ、ウフッと手で口を抑える竜馬の横を近くに住むサラリーマンがバス停に向かって急ぎ足で通り抜けた。

 

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「ソーリ、ソーリはゴミ出しをしたことがおありでしょうか」

「委員長」

「はい、環境大臣」

「首相公邸にはゴミ出しという概念は存在しません。一般のゴミ収集システムとは違います」

「環境大臣に聞いているのではありません。ソーリご自身に答えていただきたい。ソーリはゴミ出しをしたことがありますか」

「委員長」

「国家公安委員長」

「官邸や公邸の中でどのようなシステムが動いているかにつきましては、最高レベルの国家機密に当たるため情報公開はできません」

「私はソーリに聞いているんです。ソーリがゴミ出しをすることについて奥さまはどうおっしゃっていますか」

「委員長」

「官房長官」

「家庭内のことについてはプライバシー侵害に当たる恐れがございます」

「あんたは女房気取りしていればいいってもんじゃないでしょ。私はソーリに聞いてるんです」

「委員長」

「はい、官房長官」

「私が女房役と言われていることについては答弁可能です。そもそも、官房長官たるものは…‥」

「ソーリ、ソーリ、ソーリ。私はソーリに聞いてるんです。ソーリ、ソーリ、ソーリ、答えてください。ソーリ、ソーリ、ソーリ、ソーリ、ソーリ、奥さんを参考人として呼びますよ。いいんですか」

「委員長」

「総理大臣」

「そう興奮しないでください。だいたい、妻を呼ぶなんて何てことを言い出すんですか。あんただって私の家庭の事情を知ってるでしょ。意地が悪いよ。大体、質問が悪い。人の家庭のことを聞くときには自分のことを先に言いなさい。あんたの旦那はゴミ出してんの?」

「私は独身です」

「早く結婚しなさいよ。そもそもあんたの党はずるいよ。独身の女性に私の家庭の事情を聞かせるなんて」

「ソーリのゴミ問題について国民の関心を無視する態度は許せません。関連して引き続き原発のゴミ問題について質問します」

「委員に申し上げます。すでに質問時間は過ぎております。直ちに質問を終えてください」

後日、情報公開法に基づいた請求により、資料が届いた。1枚の新聞記事のコピーだった。そこには「首相日々」として次のように書かれていた。

「5月2日(月)6時00分、ゴミ出し」

 

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(煙害日記その1)

井の頭線の駅ホームのベンチに座っているとき、斜め後ろの方から風が吹いてきたかと思うと太股の一点が急に熱くなり、「アチッ」と小さい声を上げてしまった。風とともに灰が飛び散り、とっさに足の上に落ちた灰まで払い落とした。

学生がホームの吸いがら入れにタバコの灰を落とそうとしたらしく、こちらが事情を把握する前に「ごめんなさい」と言われてしまった。怒るタイミングを逸してしまったこともあるが、青少年をあたたかく見守ろうと呼びかけている身としては、言いたくなる気持ちを押さえてグッと我慢したのだった。

馬鹿野郎!この野郎!ホームなんかでタバコを吸うなってんだ!! ヂグショー。ズボンに穴があかなくてよかったナァー。

(煙害日記その2)

高田馬場駅のホームに降り立った途端、目の前を老人が走った。彼は手に持っていたタバコの火を消しもせず、ホームに投げ捨てて列車に走り込んだのだった。

ホームでくすぶったままのタバコを見てなんだか怒りがこみ上げてきた。が、老人福祉と老後の問題を深く考え小生としてはその怒りをグッと押し殺したのであった。しかし、しかし、である。

馬鹿野郎! この野郎!列車に飛び乗るくらいなら走りながらタバコを吸うなってんだ!!

(煙害日記まとめ)

本当にタバコには腹が立つ。火のついたタバコを手にぶらぶらさせながら歩くな! なんで、タバコが嫌いなオレがすれ違う度によけて歩かなければならないんだ。どっちが気を使わなければならないか、よ~く考えろ!

本当にこの国の喫煙者はマナーが悪い。いや、500年前のコロンブスが悪い。いやいや、吸っていたアメリカ先住民が悪い。いやいやそもそもタバコが悪い。いやいやいや、植物の存在そのものは悪くないんだからやっぱり栽培した人間が悪い。いやいやいや……。ええーい、こうなりゃタバコ会社が悪い!! 税金取っている国が悪い。とにかく、責任者、出てこい!

【いずれも、数十年前の出来事である。今では愛煙家は肩身の狭い思いで過ごしているという。愛煙家に愛情と憐れみを覚えつつも、タバコがなくなる日が早く来ることをただひたすら祈る。】

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「ソーリ、たばこ税による収入と喫煙による健康被害は、どちらが国家財政にとって大きいと思いますか」

「は? 何ですか」

「税金として国に入る金額とタバコを吸って病気になるために国が負担する保険料額は、どちらが大きいと思いますか」

「国にとって税収は入ってくるお金だし、保険料負担は出ていくお金だから比較なんかできんだろう」

「タバコを吸わない人が増えて病気になる人が減ると医療費支出が減るので国庫が助かるのです。健康増進法で禁煙活動を義務づけていますが、罰則がありません。強化すべきではありませんか」

「タバコを吸わない人が減ると国の収入が減る。タバコ農家も困るのでバランスを考えながら進めたい」

「タバコの値段を2倍以上にし、禁煙活動を強化すれば医療費は減ります。たばこ税の減収は取り戻せるのです」

「収入が減り、支出も減るということは財政規模が縮小するいうことです。経済はお金を回さなければ疲弊してしまう。景気も悪くなり、国民の生活も苦しくなるのです。ここは必要のない事業でもやるべきです。第一、財政を担っている者として旨味が出ませんよ」

「既得権を守り、利権に執着するソーリらしい答弁です。でもね、タバコによる健康被害は放射線被曝よりも大きく、証拠もはっきりしているという専門家もいるくらいなんですよ」

「ほうら、ご覧なさい。放射線はそのくらい安全なんですよ」

国会が終わってソーリはすぐに指示を出した。原子力発電所の掲示板には、新しく次のような通知が加えられた。

「放射線を浴びてもタバコほどはガンにならないことがわかったため、タバコを吸う廃炉担当労働者の許容被曝線量(上限値)を10倍に引き上げます」

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だんごむしは丸まっていた。ポーンと投げ出された感覚のあと、しばらく丸まっていた。まわりは落ち葉で埋まっていた。やがて、だんごむしはごちそうに気がつき、ひたすら食べ始めた。不思議なことに競争相手は一人もいなかった。

また、ポーンという感覚がしてだんごむしは丸まった。すぐに静まったあと、バサッ、バサッと何かが重なる圧力を感じたが、だんごむしはすぐに背伸びしたあと落ち葉を食み続けた。

次に感じたのはガサガサッという音がして宇宙全体が震動するほどのめまいのあと、押しつぶされるような危険な空気だった。周りの落ち葉もろとも押し潰されそうで、かろうじて滑り込んだ隙間で周りの落ち葉を食べ、自らの体を落ち着かせる空間を作り出した。

だんごむしはしばらく小さな震動を感じながらより小さく丸まっていた。食べ物はいっぱいあったが、だんごむしはそれを食べることはなかった。

だんごむしは丸まったまま灼熱地獄に落ちた。だが、だんごむしは罪を犯したわけではなかった。ただ、人間社会のゴミ処理システムに巻き込まれただけだった。

罪深きは、だんごむしをつまんでゴミ袋に放り込んだ私であったろう。

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「ソーリ、ソーリはゴミ出しをしているではないですか。新聞にはっきり書いてあります」

「委員長」

「はい、厚生労働大臣」

「ソーリがゴミを出した事実があったかどうか回答を控えさせていただきます」

「実際に書いてあるじゃないですか」

「書いてあることが真実であるかどうかも含めてノーコメントとさせていただきます」

「ソーリ、これは大きな問題なんですよ。環境問題、エネルギー問題、性差別問題、動物愛護問題につながる国家的かつ国際的なテーマなんです。ソーリご自身が国民に対してお答えいただきたい。それが民主主義であり、国民主権というものです」

「委員長」

「はい、外務大臣」

「それでは申し上げましょう。かつて、領土の返還交渉の中で相手国との間に密約があったという問題をご存じでしょうか。我が国は相手国の公文書が出ても、また我が国の元外交官が秘密を暴露しても、さらに裁判で事実認定がなされても、密約問題そのものが存在しないものとして一切コメントしておりません。それが国益に沿ったものであり、国体護持というものなのです。

国民主権というものは公共の福祉、すなわち公共の秩序を維持する範囲内で許されたものであり、総理には黙秘権という基本的な権利があります。ゴミ出しの事実があったかどうか、なんて密約問題と比べれば小さなもんです。しかし、ソーリの家庭という公的空間における秩序維持のためにはお答えできない場合もあるのです。よって、政府見解としてはソーリのゴミ出し問題は存在さえしていないということです」

「ソーリ、外務大臣はああ言っていますが、ソーリとしても同じ考えかどうか、お答えください」

「委員長」

「内閣総理大臣」

「まずは、家庭は国家の基本組織であり、家庭がしっかりしないと国家も危ういということをご理解いただきたい。その上で申し上げますが、個人の家庭で由緒正しい家系と深刻な嫁姑問題によって重い病気を患っている家長たる人間が余人をもって代えがたい国家の要職を担っているとき、公職中に多少の休養をとることがあっても国益のためにはあってしかるべきと考えております。よって、応援ヤジは除きますが、委員会質疑において安眠妨害になる大声は人権侵害になる可能性があることを申し添えさせていただきます」

「そうだったのか」--テレビの前で国民は一斉に膝を叩いた。国民はやっとわかったのだ。ソーリが病気になった原因と、答弁拒否を続けたり、途中で長時間抜け出す理由が。 ただ、そのことによって内閣支持率が急上昇するとは、国民の誰一人として予想だにできなかった。

 

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その日は電車は混みに混んでいた。私は乗換駅で私鉄から地下鉄の階段を走り下りてホームに達した。やがて入ってきた電車も混んでいた。私は、足とカバンをホームに残しながら体を乗客に無理に押し付け、続いて扉が閉まると同時に足とカバンを瞬時に車内に引き入れた。華麗な職人技で見事に乗り込んだとふっと力を抜いた途端、再び扉が開いた。扉に押し付けられていた私の体は見事にホームに投げ出され、一瞬にしてホームに横倒しになった。何があったのか、しばらくわからなかった。ただ、そのときに見えた光景は新鮮だった。「この光景もいいな」ーーそう思ってそのままの姿勢でじっと見ていた。

座った姿勢のままの乞食は、低い視線で世間を見ている。それは我々が見ている世界とはまったく異なる次元の宇宙だ。横倒しになって初めて見えたこの世界も同じようなものだった。

林家正蔵(彦六)師匠は、二度続けて転んだとき起きあがることをせず、「また転ぶならさっき起きなければよかった」とつぶやいたという。私は「彦六師匠はすごい人だ」と思いながら、ホームに横たわっていた。

駆け寄る人の足音や叫び声はリズム感もなく、遠く頭上を駆け抜ける雲のようであった。