◇現代時評 オバマ所感と憲法 井上脩身

オバマ大統領が5月27日、現職の米大統領として初めて広島市の平和記念公園を訪問、原爆慰霊碑に献花した後、所感を表明した。私はテレビを注視したが、オバマ氏の側に常に安倍晋三首相が立っているのが何とも目障りだった。オバマ氏の威を借りて参院選を有利に進めようとの魂胆が見え見えなのだ。オバマ所感をよく読むと、憲法の戦争放棄理念を自らの言葉で述べているように思える。安倍首相はこの参院選を憲法改変への一里塚と位置付けている。憲法が平和主義と戦争主義の分岐点に立つ今、「オバマ所感は憲法の平和主義とあい通じる」と強く訴えたい。
17分に及んだオバマ大統領の所感表明について、被爆者への謝罪がなかったこと、核兵器廃絶への道筋を示さなかったことの2点で問題視されている。実際、出だしの表現は「71年前、晴天の朝、空から死が降ってきて世界が変わりました」である。あたかも原爆が天から降ってきたと言わんばかりで、投下した国の代表としての責任感は感じられない。核兵器軍縮についても「我が国のように核兵器を持っている国は、核兵器のない世界を目指す勇気を持たなくてはいけません」と、抽象的な言辞で済ませ、核廃棄廃絶へのリーダーシップをとろうとの気迫はうかがえない。

とはいえ、アメリカの現職大統領の被爆地訪問の歴史的意義を小さくない。新聞各紙も、オバマ氏来広を高く評価したうえで、所感批判があることを伝えている。

問題は、本稿の冒頭に触れたように、安倍首相が、オバマ氏の慰霊行動を自らの手柄にしようとしていることだ。それは、集団的自衛権行使ができる安保法をつくった戦争主義者の顔を隠すことでもある。安倍首相の仮面をはがすため、オバマ所感を憲法の観点から捉えることは参院選公示が目前に迫ったいま、喫緊の課題である。

私は、所感の次の2つの文節に着目した。

「国は犠牲や協力によって人々が団結するという物語を語り、(中略)自分とは違う他者を虐げたり、非人間的に扱ったりすることに使われてきました」

「(原爆投下で)混乱した子供たちが抱いた恐怖感を感じ、声にならない叫びを聞きます。(中略)私たちは正面からこの歴史に向き合い、このような恐怖を再び起こさないためにできることを問う責任を共有してきました」

これは、憲法前文の「われわれは、平和を維持し、専制と隷属、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」のくだりと、基本的なところで一致している、と言えるだろう。戦争と平和をどう考えるかという点で、同じ世界観に立っているようなのだ。

さらにオバマ氏は「戦争自体に対する考え方を変えなければなりません」と述べたうえで、「外交を通じて紛争を防ぎ、始まってしまった紛争を終わらせる努力をする」ことを求め、「(その努力は)しなくてはならない理想であり、大陸と海をまたぐ理想です。全ての人にとって変えることのできない価値です」と、戦争のない世界実現への理想をうたった。

この文章から浮かびあがるのは憲法9条の「国際紛争を解決する手段としては永久にこれ(戦争と武力による威嚇や行使)を放棄する」の条文である。オバマ氏は戦争放棄を明言したわけではないが、根底にその思いが流れている、といえるだろう。

以上の点から、オバマ所感は憲法とはその平和精神で軌を一にしている、と私は考える。

自民党一強時代のなか、憲法前文の平和理念と9条は風前の灯になりつつある。その対策として、市民団体が「憲法九条を世界遺産に」運動を展開している。世界遺産になれば、安倍首相といえども9条を容易に変えることはできないだろう。オバマ氏は核兵器軍縮についてのプラハ演説でノーベル平和賞を受賞した大統領だ。そのオバマ氏の被災地での所感は世界遺産登録への後押しに十分なりそうである。

オバマ氏の被爆地訪問には期待外れの面が多々あったことは、既に述べてきた通りだ。だが、失望だけでは憲法を守ることはできない。憲法の観点からオバマ所感を考察した論評が憲法学者からも政治学者からも、そして護憲・反核運動家からも出てこないのは、何とも残念である。