現代時評《けじめ》:片山通夫

《けじめをつける》という言葉がある。最近特によく聞く言葉だ。基本的に社会的に名のある人びとが不祥事を起こした時などに使われるようである。《けじめ》を辞書で調べてみた。 三省堂 大辞林によると《区別をはっきりさせる。2)過失や非難に対して,明白なかたちで責任をとる」 とある。

そして最近聞く《けじめをつける》場合、《過失や非難に対して,明白なかたちで責任をとる》という使われ方が多い。少し古いが例を取ると、甘利明経済再生担当相は記者会見で《閣僚のポストは重いが、政治家としてのけじめはもっと重い」と大臣を辞したという事件があった。毎日新聞によると《閣僚のポストは重い。しかし、政治家としてのけじめをつけること、自分を律することはもっと重い。政治家は結果責任であり、国民の信頼の上にある。たとえ私自身はまったく関わっていなかった、知らなかったとしても、何ら国民に恥じることをしていなくても、秘書に責任転嫁することはできない。それは私の政治家としての美学、生き様に反する》と述べた。

これが彼の《けじめの付け方》だろうが、一向にけじめなんてつけていないと思われる。まず最初に週刊誌にすっぱ抜かれた時には《一週間調べて詳細を」と言っていた。ところが突然前述のごとき大臣辞任である。一体何があったのかさっぱり本人の口からきいたことがない。あたかも《自分は全くかかわっていないか」のような辞任会見だった。

そして仲間をかばうのが常の日本人社会。《罠だ」、《はめられた」とわめく自民党重鎮たち。盟友の首相はダンマリを決め込み、これで《けじめをつけた」つもりのようだ。

 

しかしこの疑惑だが、一色なる人物が持ち込んだネタにしては怪しい部分もありそうだった。しかし甘利側は全くと言っていいほど反論していない。反論していない以上、伝えられる情報は事実か、もしくは争えばまだまだ巨悪が表ざたになる危険を避けるためのダンマリかは、今のところ不明だが、なんとも悩ましい。

それに昨今当たり前のことになってしまった感があるが、マスコミはこの問題を避けて通っている。これも恐ろしい。

《けじめ》は、伊勢物語や源氏物語にも見られる言葉で、はっきりした区別、季節などの変化の境目、隔てなどを意味していた。ゆえに《けじめをつける》も、《はっきり目に見える形で責任を取る》という点が肝要で《心の中ではけじめを付けています》などというのはけじめをつけたうちには入らない。

そういえば、武士(さむらい)は切腹というけじめのつけ方をしていた。昨今、政治家や芸能人などが不祥事を起こした場合《丸刈り》になるなんて《すぐに生えてくる髪の毛》を切ったって決してけじめをつけたことにはならないと思うのだが…。

昔は人のうわさも75日なんて言っていたが、最近はインターネットの普及で、誰でもいつでも、過去の事件を呼び起こしてくれる時代だ。そんな意味からも《けじめをつけそこなっている》甘利さん、時がたてばなんてことは通用しませんよ。

しかし甘利氏に限らず《けじめをつけそこなっている輩》が多いのは困ったものだ。