◆現代時評《首相の「自衛隊最高指揮官」発言》:井上脩身

安倍晋三首相は3月21日に行われた防衛大学校の卒業式で訓示し、「自衛隊最高指揮官、内閣総理大臣、安倍晋三」と締めくくった。安全保障関連法が29日に施行されるのを前に、軍事国家にまい進する姿勢を明白に示した形だ。首相は自分が在任中に憲法を変える、と公言している。その手始めに緊急事態条項を加える、とみられているが、真の狙いが国防軍創設であることが、「自衛隊最高指揮官」発言で改めて浮かび上がった。

防衛大出身の滝野隆浩・毎日新聞記の報告によると、過去3度の訓示では「自衛隊最高指揮官」とは言わなかった。同記者は「今年は特別な思いがあったのかな」との印象をもったという。(3月29日付同紙)

首相の特別な思いとは一体何を意味するのだろうか。

自衛隊法には「内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有する」(第7条)とある。だが、憲法には「内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する」(第72条)とあるだけで、「自衛隊最高指揮官」とはどこにもうたわれていない。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」(第9条第2項)と規定されているのだから、当然といえば当然であろう。首相は「憲法を尊重し擁護する義務を負う」(第99条)のだから、「自衛隊最高指揮官」と軽々に口に出してはならないのだ。

にもかかわらず、なぜ安倍首相は「自衛隊最高指揮官」と胸を張ったのか。2012年に公表された「自民党憲法改正草案」に「内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する」と書き込まれているからにほかならない。安倍首相は「憲法に違反して憲法を軽視、または無視」し、「憲法に違反して集団的自衛権を行使できる安保法」をつくったが、自民党憲法改正草案には自民党総裁として極めて忠実なのだ。総理と総裁を峻別できる政治哲学を持ち合わせていないからであろう。

ところで国防軍とはどういうものか。改正草案は「国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命もしくは自由を守るための活動」などをする軍隊としている。

「国際協調活動」が、集団的自衛権の名のもとにアメリカの戦争に加担、場合によってはアメリカに代わって戦争することであることは言うまでもない。「公の秩序維持活動」とあるから憲兵を置きたいようだ。反戦思想の者を「非国民」として弾圧したあの憲兵である。「国民の生命、自由を守る活動」とは耳触りのいい言葉だが、政府や軍に従順な者に対してのみの自由を意味し、逆らう者は容赦なく拷問にかけられて命が奪われることであることは、戦前の暗黒時代が証明している。

そもそも、「国民」の概念自体が、現憲法と改正草案は正反対である。

現憲法は前文の冒頭、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、(中略)主権が国民に存することを宣言」している。これに対し、改正草案の前文は「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家」と述べる。現憲法では国民は主権者であるが、改正草案では、天皇の国の国民なのだ。国民が天皇の臣民であった明治憲法が色濃くにじんでいることは誰の目にも明らかだ。

その明治憲法では「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(第11条)とあり、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」(第55条)と規定された。改正草案は、天皇は元首であるが「国政に関する権能を有しない」とした結果、総理大臣を国防軍最高指揮官としたのだ。戦前、「天皇」の名で国民は召集された。改正草案では「総理大臣」の名で国民を戦争に駆り出す魂胆のようである。

安倍首相の「自衛隊最高指揮官」発言は改正草案を念頭に入れてのことであることは既に述べた。巨大与党をバックにしたいま、首相が国防軍創設を射程距離に置いていることは間違いない。今夏の参院選で自民党を中心とした改憲政党が3分の2を上回れば、日本人は「平和の国の国民」でなく、「戦争する国の国民」になる。この参院選は分水嶺なのである。