◆ 現代時評《大津地裁決定にみる「許されざる危険」》:井上脩身

大津地裁(山本善彦裁判長)は9日、関西電力高浜原発3、4号機の運転差し止めを命じる決定をした。滋賀県の住民が求めた差し止め仮処分申請を認めたもので、関電は1月に再稼働した3号機の運転を停止した。同原発3、4号機については昨年4月、福井地裁が運転差し止めを決定、12月、同地裁が一転して運転を容認しており、今回の大津地裁決定で「原発運転不可」の原点に戻った形だ。私はこれまで本欄で「原発は許されざる危険」と訴えてきた。今回の決定は、その原則にのっとって下されたといえ、極めて意義が高い。脱原発の流れを確実なものにするため、「許されざる危険」の理論構築をさらに進め、脱原発法の制定をも視野にいれた内容ある反原発運動へと深化しなければならない。

「許された危険」と「許されざる危険」についておさらいをしておきたい。

たとえば航空機。墜落すれば極めて高い確率で乗客の命が奪われるという危険な乗り物である。だが、飛行機の時代となった今、運航を全面禁止することはできない。そこで、法律上厳格な条件を付け、許可された航空会社にのみ運行を認めている。これが「許された危険」である。

原発についても、推進派はこの法理論を根拠に、原子力規制委員会の安全審査をパスした原発は稼働が許される、とする。安倍晋三首相が「安全な原発は稼働させる」と述べるのも、「許された危険」の法理によってである(首相にその認識があるかは疑わしいが)。

しかし、原発事故が引き起こす影響の大きさは、ほとんど戦争レベルである。放射能汚染による健康被害は次世代にまで続き、元の住みかに戻ることもできない。溶けだした核燃料の取りだしは容易ではなく、廃炉までの道筋も見えない。

しかも、使用済み核燃料の処理もままならず、1万年先の人たちにまで核不安を押し付ける。そのような「平和利用という名の悪魔」を「許された危険」として許容することが妥当であろうか。

ヒロシマ、ナガサキを経験した日本は、核軍縮のリーダーであらねばならないように、フクシマを体験した国として、原発の危険性を訴え、脱原発のリーダーであらねばならない。その理論支柱が「許されざる危険」である。

こうした観点に立って、今回の大津地裁決定を考察する。まず福島第一原発事故について「原因究明を徹底的に行うことが不可欠」とし、「この点に意を払わない関電や原子力規制委の姿勢に非常な不安を覚える」と、規制委にも疑問符を投げかけた。このうえで、規制委の審査基準について、「十二分の余裕をもった基準とすることを念頭に置く」ことを求め、「対策の見落としにより過酷事故が生じたとしても、致命的な状態に陥らないようにすることができるとの思想に立って、新規制基準を策定すべき」とした。

さらに、海底断層の見通しやや津波対策、避難計画などにも論述し、「住民の人格権が侵害される恐れが高い」と結論づけた。この決定で最も重要なのは、原子力規制委の規制基準を「不十分」とした点であろう。規制委の安全審査をパスしただけでは運転は許されない、としたのだ。ここに「原発は許された危険」ではない、との判断が読みとれる。

原発が「許されざる危険」であるならば、どのような場合、運転が許されるのだろうか。決定は人格権の保障の観点から、「過酷事故が起きても致命的な状態に陥らない」安全対策が施されていること、としている。大地震、大津波、巨大台風、テロ攻撃などで深刻な事態になっても、放射能が外部に漏出しない対策がとられている場合のみ稼働ができる、というのである。

「墜落しても死者がでない飛行機をつくれ、と言っているに等しい」と、原発推進派は反発しているが、飛行機と原発は全く別物であることは既に述べた通りだ。だが、「原発・飛行機同等論」の同調者は政界、財界だけでなくマスコミ界にも根強い。その背景には、「許されざる危険」の考えが浸透していないことが挙げられる。「原発も飛行機もいっしょ」との発言に対し、「原発は飛行機とは違う」と納得させる理論構築が不十分なのだ。

その理論化が進めば脱原発法づくりへと反原発運動は深化するだろう。この新たな課題を乗り越えてはじめて、「原発大国」に打ち勝つことができる。