◆現代時評 《ソ連と我が国、マスコミの似てること!》:片山通夫

1985年3月、ソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフは改革派を登用する人事を進め、翌86年2月の第27回ソヴィエト大会で、「ペレストロイカ」の課題を提示した。

それはそれまで抱えてきた矛盾や停滞などの問題の存在を認めてこなかった、もしくはみとめようとして来なかった現状を公式に認め、硬直した社会体制を見直そうという画期的なものだった。しかしその段階では、「社会主義の否定」にまでは至らなかった。

翌年1986年4月、人類史上最悪の事故がソ連邦内で起こった。ウクライナの首都キエフから100キロメートルのチャルノブイリでの原発事故である。この事故はソ連の政治・社会体制の矛盾を一気に内外に露呈した。しかしソ連共産党内部では「既得権益に固執する層」が抵抗を試み、ゴルバチョフの提唱するペレストロイカに抵抗する勢力は依然として存在したことは言うまでもない。
ゴルバチョフを中心とする改革派は政治改革に手を付けざるを得ない状況に陥り、「グラスノスチ」(情報公開)を推進し、選挙での複数候補者制度の導入が進められた。こうした改革が「ペレストロイカ」と「グラスノスチ」であり、1991年12月25日のソ連邦崩壊につながったわけである。これはロシアをはじめとする東側諸国民はじめ世界に提供された驚くべきクリスマスプレゼントだった。

さて今年は戦後70年でもあり、ソ連邦崩壊の引き金となったペレストロイカ30年の年でもある。ペレストロイカ(ロシア語:перестройка)は、1980年代後半からソビエト連邦で進められた政治体制の改革運動。ロシア語で「再構築(改革)」を意味する(“пере”〔ペレ〕は「再び」を意味する接頭辞、“стройка”〔ストロイカ〕は「構築」「建設」を意味する単語)という意味を持つ。(ウイキペディア)

それまで硬直した政治体制だったソ連が、この改革と情報公開によって最終的には国が崩壊するという状況に追い込まれたことは驚くべき現象だった。筆者の知っているロシア人などは最初はただただ呆然と見ているだけだったと述懐している。かくしてソ連は市場経済のロシアに変貌した。しかしそこにはまだ国民の政治的な未熟さからか、プーチン現大統領のような「マッチョなヒーロー」を渇望する国民性があると感じるのは筆者だけなのか。

ところでペレストロイカとほとんど同時に行われたグラスノスチは、ゴルバチョフの旧主派勢力への挑戦だった。情報公開ということが、実際にどの程度行われたのかは、筆者はつまびらかではないが、抵抗する勢力は徹底抗戦を図ったであろうことは、一連の騒動を見ると、想像に難くない。例えば後に大統領となるボリス・エリツィンが旧主派のクーデターを失敗に導いたことは周知の事実である。

ここで重要なことが「情報公開」の意義である。旧主派・ソ連共産党は当時世界最大の新聞プラウダなど政府・共産党系のマスコミはすべてクーデター側についていた。そこで活躍したのが、まだほとんど知られていなかった電子メールだったという。1990年に、当時ソ連の専門家が開発していた電子メールシステム「RelCom」から、電子ファイルを電話回線を用いてフィンランドに送信する際、何らかの原因でUsenetに漏洩していたという経緯があった。そこでまず誰かがエリツィンの声明をファックスで受け取り、このネットワークを介して西側諸国に流したという。(この項ウイキペディア)

国民が事態の推移を知らされていなかった段階で、西側はニュースを受け取っていた。そしてそのニュースは瞬く間にロシア国内に流れた。現在の日本で安倍政権が我が国のマスコミに対して威圧的な態度で臨み、外国のマスコミなどとの接触を全く行っていない状況と当時のソ連の旧主派と類似していると思うのは筆者だけか?

当時のソ連邦の広報紙となっていたプラウダ、現在、安倍政権の広報紙となり下がった我が国の大手マスコミとどこが違うのか? よくよく考えてみると全く違うようでもある。当時のプラウダは自分の意思が持てない広報紙だった。しかし我が国の現状は「意思を持てるのに持たない」広報紙でしかない。